●人は、決して「言ったこと」だけによって何かを言うのではなく、「言ったことと、言わなかったこと」の総体によって何かを言おうとする。これは、わざわざ図と地とかいうことを(あるいは精神分析を)持ち出さなくても、当然のことではある。しかし、このことを強調し過ぎるとろくなことは無くて、嫌らしい仄めかしへの注意の強要とか、文脈を読め、とか、空気を読め、とかいった、抑圧的で排他的な(同質的な)醜くて鬱陶しい空間を出現させてしまう結果に、しばしばなる。例えば、ビクトル・エリセの『エル・スール』で、父と娘が、杖で床を叩く音によって、様々なニュアンスの全てを一瞬にして理解し合う様は素晴らしく美しいが、それは同時に、母親を蚊帳の外に置き、排除することになってしまう。だからぼくは多くの場合、(言葉という次元においては)そのようなうつくしい洗練をあえて知らないふりをして、傍若無人に、礼儀を無視して(あるいは、自分の無知や至らなさを無視して、つまり、自分には理解出来ないような「深い」響き合いがあるのかも知れないことを畏れつつも)、それはぶっちゃけこういうことでしょう、と粗雑に言ってしまうことに(なるべく)している。だいたいぼくは、そんな繊細な人間ではないし、だいいちそんな気の使い合いはめんどくさいし。しかし勿論、「言わないこと」によってしか「言えない」ことは、ぶっちゃけて「言って」しまったとたんに死んでしまうということも、肝に銘じておかなければならないだろう。と言うか、決して「言わないこと(言えないこと)」こそが、「言ったこと(言い得ること)」を支えているのだということくらいは、最低限、意識していなくてはならないとは思う。