●午前中いっぱいかけて原稿を書き、昼過ぎにメールで送信。『母なる証明』論は、二日間の興奮のなかで三十枚書いたけど、こちらの書評は、六枚半をまるまる三日かかって、苦しみながら書いた。苦しみに見合った内容になっていればいいけど。午後は脱力してしまって本も読めず。
ぼくにとって六枚が難しいのは、その分量で何をどれくらい書けるのか分かっていないということと、にもかかわらず、六枚ではこのくらいしか書けないだろうという思い込みがある、ということなのだろうか。当然のことだが、ある本を、六枚の原稿を書く分だけ読むということは出来なくて、その本がつまらなければ書くことは一言もないし、面白ければ、六枚などでは収まらない。ただ、この本は面白い、この本はこういう本だ、ということをすぱっと言い切るように書くだけでは六枚はもたないし、しかし、この本は、こういうことが書かれていて、それがこういう点で優れているから面白い、ということを順序立てて書こうとすると、六枚ではまったく足りない。要するに、六枚という長さの書評のなかで、その本(その作品)にどの程度の深さで触れることが可能なのか、その適切な距離感がぼくにはよく分かってないのだ(何が書けるのか、それをどの程度まで書けるのか)。六枚という長さである程度突っ込んだことを書こうとすれば、細部で厳密さを犠牲にしたり、粗くなってりしてしまう。かといって、例えば、その本の内容を出来るだけ的確に要約して、その上で、その優れた点と問題点とを指摘する、というようなことを、小説とか、作品と言われるものに対してすることに意味があるとはぼくには思えない(学校の先生が生徒の答案を採点する、というような態度で「作品」に接することは、もっとも下らないことだと思う)。書評を書いた時の不発感みたいなものは、要するに、もっと突っ込んだことを書くつもりだったのに、結局、表面を撫でただけで終わってしまった、とか、もっとちゃんと書くべきところを、なんとなく収まりのいい言い方で収めてしまった(そこを厳密にしようとすると長くなってしまうからという理由-言い訳に負けてしまって、六枚という長さは、ぼくにそのための絶好の言い訳を与えてしまう)、ということなのだろう。しかし、そうではない書き方もきっとあるはずなのだ。いきなりすぱっと核心だけを掴んでしまう、みたいな。
でもそれは、「書き方」の問題ではないのだろう。個々の「その本(その作品)」と、それについて(ぼくが)「書く」ということの、一回一回、その都度の関係の有り様の問題であるはずなのだ。でもまあ、それは当然のことで、当然のことを改めて言ってみてもあまり面白くない。