●喫茶店からの帰りには雨がやんでいた。深夜までやっているスーパーの手前の道路はこの時間(午後十一時過ぎ)にはほとんど車が通らなくなるので、律儀に信号を守る必要はないのだが、ただ立ち止まっている口実として赤信号で立ち止まる。ゆっくり深く息を吐く。見上げたマンションの最上階に、大きな正三角形の窓があって、内側からの灯りで光っていた。中で人が動いているように光が揺れている。毎日のようにこの信号で立ち止まるのだが、あんなところに三角形の窓があることに、いままで気づかなかった。あの内側には一体何があるのだろうか。目に痛いほど鮮やかなLEDの信号機の色がかわり、歩き出そうとしたら、何か重たくて柔らかいものを蹴っ飛ばしてしまってドキッとする。あわてて足下を見ると、たっぷりと雨の水分を含んだキャップが転がっていた。しかし、今の、何か生き物でも蹴っ飛ばしてしまったような感触の重さと、目に見えているずぶ濡れのキャップから感じられる重さとが、全然釣り合っていないように思った。見えないものを蹴っ飛ばしたみたいだった。
●書評の仕事はどうしても不発感がともなう。六百五十ページもある本を読んで、書けるのはたった六枚半。六百五十ページを読むことで惹起されてしまった、六枚半にはとうてい入りきれないこの気持ちの高まりを、どのように収めればよいのか。まるで思春期の子供みたいに、気持ちがあふれ出て眠れなくなる。たんに運動不足のせいかもしれないのだが。