楳図かずお『ROJIN』『イアラ』

●美容院での待ち時間に「女性自身」だか「女性セブン」だかどっちか忘れたけど、そのどちらかをパラパラめくっていたら、楳図かずおの『ROJIN』という短編が載っていた。新作ではなく70年代に描かれたものらしくて、人間が皆20歳で死んでしまう世界で、5歳の子供と「老人」とが出会う、という話で、何故、女性週刊誌にそのような楳図かずおの旧作が載っているのか(女性週刊誌が好みそうなホラーでもないのに)よく分からないのだが、面白く読んでいたら、途中で「後編につづく」となっていて、半分しか読めなかったのだった。公園に何故かいきなり大きな穴が空いていて、そこから声が聴こえるので子供がなかを覗いてみたら、みたことのない生き物(老人)がいた、というシュールな展開で、子供は最初気持ち悪がって(髪の毛がない、とか、顔にヒビがはいっている、とか言って)石を投げて攻撃したりして、老人を穴の中に閉じ込めてしまうのだが、次第に老人の話に耳を傾けはじめる、というくらいのところで終わってしまっていて、この話がどこにゆくのか、後編がとても気になるのだった。
楳図かずおと言えば、少し前に『イアラ』という楳図氏の長編のエッセンスを凝縮したような異様な作品を読んだ。これを読んで、樫村晴香が「ユリイカ」に書いた楳図論の基本となる核に、この『イアラ』があったのだなあと納得した。樫村氏は、楳図氏の作品の中核には、時間や世界の外にいて、自らの美しさに異様に固執する女性と、その女性の美しさに目を釘付けにされることで、現実世界(時間)のなかで身動きの出来なくなる(能動性を剥奪される=不能となる)男性という構図があることを指摘していた。(楳図氏の作品を貫く、「メタモルフォーゼ=大人になること」への強い否認は、ここからくる、と。)これはつまり、男性が、世界と私とが分離した最初の瞬間(圧倒的で、意味を欠いた世界=視覚像が目の前にあらわれて、それに釘付けになる瞬間、荒川修作の言う「新生児の知覚」のようなものだろう)に永遠に固着している状態で、世界と分離した私が行う、「私ではないもの=世界」に対する最初の働きかけ=問いかけ(「それは何か?」)が、他者(父)による返答(「それは私(=父)でありお前ではない」)を得られないことによって、最初の問いかけが象徴的なものへと発展せずに(最初の働きかけが対象を「掴む」ことが出来ずに)「叫び(=強度)」の次元に留まり、私と世界とは完全には分離し切ることはなく、「私」が能動的主体とは成り得ないままでいる状態のことだ、と、樫村氏はする。『イアラ』は、まったくそのままの構図が示される作品で、人類の文明の初期から地球の滅亡に至るまでの壮大な時間が描かれるこの作品は、その間に、何度も反復してあらわれる(生まれ替わる)同一の女性(男性にとって最初で唯一の愛の対象である女性)と、死ぬことも老いるとこも出来ないまま、途方もなく長い時間、現実世界のなかに居続け(取り残され続け)、ひたすらその女性が(再び、三たび、四たび...)現れるのを受動的に待ち続けるしかない男性の話だった。この作品は壮大な歴史の流れを背景にもつが、この物語の大げささは逆に、楳図氏にとって、世界=全体を歴史=物語(父の物語)の創造によって統合し把握し所有しようという意思が重要ではないこと、むしろこの歴史の壮大さ(と言うか、いい加減さ)は、楳図氏が歴史=物語に対し無関心であること、こそを示しているように思われる。つまりこの作品では、歴史的時間(他者と「物語」を共有することで現れる時間)は書き割り的な背景に過ぎず、歴史(物語)的=現実的=共同的な時間を見失った男性が、時間=世界の外から現れて来る「女性(=世界の視覚像=外傷)」の到来をひたすら待ち続ける話だと言えよう。(この男性は不死であるが、不死であることによって、現実的(歴史的)な世界のなかでは「死んでいる」も同然なのだ。)そこでは、時間は流れず、物語は動かず、ただ、身動き出来ずに強張った男性の前に、女性の美しいイメージが反復的にあらわれるばかりなのだ。『イアラ』は、細部の豊かな膨らみや、物語のダイナミズムを徹底して欠いた、一見すると貧しい作品であるが、その貧しさのなかで強迫的に反復されるイメージの、その強迫的な強さ(反復の制御出来なさ)によって、際立った感触を持っている。楳図氏(の長編)にとって、世界への能動的な働きかけ(=メタモルフォーゼ)は、欺瞞以外の何ものでもなく、主体はただ、受動的に「美しいイメージ=女性」(樫村氏によれば、これは「生誕という外傷」の等価物ということになる)の到来(再来=反復)を待ち続け、その場所に固着し続けるしか無いものなのだった。