緒方明『いつか読書する日』(1)

緒方明いつか読書する日』をDVDで観た。思いのほか、面白かった。しかし、面白いというのと同じくらいの勢いで、疑問や不満を感じた。特に、最後の2、30分の展開は、何でそんな、平気ですべてを台無しにしてしまうことができるのか、という怒りに近い感情さえ感じつつ、観た。(以下、ネタバレあり)最後の2、30分をなかったことにすれば、とても面白い映画だと思う。
仁科亜季子が亡くなってから後の展開が、まったく納得できないのだが、映画の始まりから、面白く観ていたのが、まず、一番最初にひっかかったのが、田中裕子が、仁科亜季子とはじめて対面した後に、自分に対して腹が立っている、と発言する場面だ。仁科亜季子が、岸部一徳と田中裕子の関係に介入しようとするやり方は、病人で、目の前に死が迫って焦っていることを差し引いても、あまりに(彼らが生きてきた時間に対する)配慮を欠いた乱暴でひとりよがりなやり方で、まず、田中の苛立ちは(自分にとって貴重なものである生活の時間やそのなかでの感情の有り様を踏みにじるような介入をする)仁科に向けられるのが当然だと思える。それなのに仁科の乱暴なやり方に対する怒りを、田中も、夫の岸部も、どちらも抱かないというのが、そもそも不自然に思えるのだ。それまでとても丁寧に、田中と岸辺の生活と、そのような生き方(時間)を支えている地方都市の環境とを描き出していた映画は、その辺りから、あらかじめ決められた、田中と岸部とがセックスするという方向へと、なにがなんでも強引にもっていこうとする手つきばかりが感じられる、ありきたりなメロドラマへと変質するように思える。30年以上もの時間、互いに相手に対する感情を抑制してきた50歳過ぎの二人の関係が、急速に近づいてゆくことがあるとすれば、それにふさわしいだけの過程(あるいは「きっかけ」)が、それまでの生活の描写と釣り合うくらいの説得力で示されなければ、とても納得できないだろう。それまでは、自らの感情を抑制しつつ築いてきたそれぞれの生活のなかでの感情の揺らぎは、深夜、読んでいたドストエフスキーに感情を揺さぶられて、ついラジオ番組にハガキを書いてしまい(この、書き直しする描写が素晴らしい)、その結果、毎日正確に反復されていた牛乳配達の時間に遅れが出てしまう(田中の場合)、とか、自分の仕事の範囲を越えて、ある特定の少年につい入れ込んでしまう(岸部の場合)という形で、とても繊細な震えとして表現されていた。そのような丁寧で繊細な描写の積み重ねが、ある時点から、「悲劇」の典型へと強引に落とし込むようなものに変化してしまい、その結果、なんとも鈍臭いメロドラマみたいにになってしまった。(メロドラマにはメロドラマとしての形式的な洗練というものがあり、その方向を目指すというのなら、それはそれで、それが現在でも面白いことかどうかは別として、まあ、アリだとは思うけど、この映画は、終盤に至るまではそういうものではなかったはずなのだ。)ダムの付近を二人で歩き、そこに遠くから雷が聞こえ、その後大雨になる、というくらいのこと(紋切り型の効果)で、二人の関係の急速な接近を納得させられると監督が考えているとしたら、それは相当観客を馬鹿にしていると思う。(「したいと思ってたこと、全部して」みたいな決め台詞は、完全に滑っていると思う。)さらに、ここで二人の関係を接近させたのならば、この二人の、30年の抑制を越えた関係の接近の後の顛末を、多少なりともきちんと見せてくれなければ、それまでの二人の積み重ねられた描写に対して釣り合わないと思う。なのに、あんなやり方で簡単に岸部を殺してしまって終わりというのは、考えられる限り最悪の結末のつけかただと思う。(岸部にああいう風に都合良く死んでもらわなければ、田中の側からみたファンタジーとしては成り立たないのかもしれないけど。)
●とはいえ、そのような終盤の展開を「観なかった」ことにすれば、とても面白い映画だと思う。この映画の登場人物は、皆、魅力的だけどどこか非現実的な感じなのだが、そこにリアリティを与えているのが、それらの人物が生活している土地の描写であり、風景であるように思う。(つまりそれは、映画が「実写」であることへの観客の「信頼」のようなものと関わっていて、この風景がアニメーションやCG合成によってつくられたとしたら、全くつまらないものになっていただろう。)この映画は、長崎で撮影されたらしいのだけど、海がまったく写っていないので、実在する土地というよりは、「ある架空の土地」という感じなのだろう。しかし、そこに映し出されている風景や事物、それらによって構成されている空間があるからこそ、人物たちの存在や生活の様式、そこに流れる時間、に説得力が生まれているのだろう。田中裕子のしている「牛乳配達」という仕事が、ノスタルジックな雰囲気を越えて、現在を舞台とする映画のなかで成り立つのかどうかは微妙なところなのだが、この土地の空間によって、(たんなる映画上の効果を越えた)リアリティを得ている。(牛乳配達という仕事は、この土地との関係なくしては、あり得ない。)あくまで架空の土地として設計されながらも、そこに写っているのは実際に存在する風景であり、事物であり、地形であって、(例えば大林宣彦尾道ものとは違って)たんにノスタルジックな映画の風合いに奉仕するために選ばれたものではないと感じられることが、この映画の描く土地の描写の独自で面白いところだと思う。ユキヤナギが塀から垂れ下がる道を歩く岸部一徳の描写とか、こういうシーンは、ありそうで他にあまりないように思う。
●あと、面白かったのは、記憶障害が進行する上田耕一が、時間を見失ってパニックになる描写で、これがやたらと生々しくて、こういう感覚がなんとなく分かるようで、 とても怖かった。