緒方明『いつか読書する日』(2)

(一昨日のつづき、ネタバレあり)
●『いつか読書する日』(緒方明)に出てくる田中裕子の家には、本がびっしりと詰まった本棚がある。この本棚の本たちは、田中裕子によって読まれ、田中裕子の生きた時間のなかで蓄積されていったものなのか、それとも、早く亡くなってしまった彼女の両親によって読まれたもので、若くして一人になった彼女は。親が残したものとしての本棚(のなかの本たち)とともに年を重ねてゆき、まさにそれらの本を少しずつ、「いつか読書」しようと思いつつ生きてきたということなのか、どちらかはよく分からないのだが、どちらにしても、(そうそう頻繁に映し出されるというわけではない)この本棚の蔵書が、実際に長い時間をかけて特定の人物によって読まれ、蓄積されたものであって、映画のために、登場人物の造形のために即席にあつめられたものではないという気配がはっきりと感じられること(実写の映画は、そういうことをちゃんと映し出す)が重要なのだ。(おそらく、映画のために家を貸してくれた人の、実際の蔵書を使ったのではないかと思われる。)極端なことを言えば、この映画では、田中裕子の演技や台詞などよりも、彼女が存在する坂の多い土地や、この本棚の方がずっと重要であろう。彼女(登場人物)は、田中裕子の身体や演技、あるいはシナリオ上の設定や物語や演出によって存在するというよりもずっと重く、この坂の土地や家や本棚によって存在する。深夜,一人のベッドのなかで読んだドストエフスキーに心を揺さぶられる、などというエピソードがそう恥ずかしくもなく成立するのは、ひとえにこの本棚や、本棚のおさめられた部屋に実際に刻まれているであろう、そこに暮らした人が長いこと本を読むことやその時間を、生活のなかの重要な要素として持続してきたという刻印による。
本を読むということに限らず、なにかしらの感覚を受け取るということは、本質的に孤独なことだろう。例えば、信号機の赤い色を「止まれ」を現す指標だとする約束事を社会的に共有することは出来ても、その赤い色を見ることによって浮上してくる、ある感触や感情は、それを見るたびごとにあらたに、私の身体において受け止められ、耐えられ、処理されるしかない。例え、通俗的なベストセラーを読んで生じた、(時流に流された)浅はかな感動であったとしても、その時に感じた感情の強さは絶対的なものとして身体を貫き、その衝撃は、友人が、同じ本を読んで同じように感動したことを確認できたとしても、依然として、その衝撃そのものが共有されるわけではない。ましてや、学者が勉強のために(職を維持するために)読むとか、批評家が原稿を書くために読むとかではない、純粋な趣味としての読書は、それを読む人物の最も秘められた、プライベートな領域の生に関わるだろう。『いつか読書する日』の田中裕子の書棚は、そのような孤独な、秘められた生の営みの感触を、濃厚に示している。
田中裕子と岸部一徳が田中の家でセックスをした次の朝、(田中は牛乳配達に出ているので)一人で目覚めた岸辺は、(昨晩は暗くて見えなかったのだろう)ベッドの反対側の壁一面を埋め尽くす本の存在に気づく。(岸辺の背中越しに、壁いっぱいの書棚を示すショットがある。)このショットは、まるで納得できないこの映画の終盤の展開のなかで、唯一といっていい説得力のあるショットだと思う。ここで岸辺は明らかに、田中が一人で生きてきた時間の長さを受けとめている。あえて、この映画の結末を肯定するとすれば、この圧倒的な孤独の気配こそが、岸辺を田中との接近からはじき返した、と考えられる。この分厚い時間の向こう側には、手が届きようがない、と。つまり、二人の距離は決して、直接的な身体的接触によっては近づきようがない、と。この映画では、ラストに唐突に岸辺が死んでしまうことが悲劇なのではなく、この近づきようのない距離(時間の幅)にこそある、と。(そう考えれば、渡辺美佐子から「これからどうする」と問われた田中が、「本でも読んで過ごす」と答えるラストとの辻褄もあうだろう。)いや、しかし、この距離そのものは実は悲劇でもなんでもなく、二人の男女はそもそも、自分の生や「思い」をそのようなものとして受け入れてきたのだ。もし悲劇があるとすれば、仁科亜季子の介入によって、二人の抑制された生の持続が乱され、それによって岸辺に死が訪れてしまった、ということにある、といえる。
つまり、この映画の仁科亜季子は、魔女であり吸血鬼であるのだ。(そういえば、いくら病人とはいえ、仁科の顔の白塗りはちょっと異常にみえるし、高台を見下ろすベッドから、機械を使ってグイーンと起き上がる様は、ほとんど吸血鬼を思わせる。)彼女は、夫である岸辺と田中の間に長く持続する秘められた感情を許しがたく思い、復讐のために、自らの死の効果を使って、それを破綻させようともくろんでいたのだ。二人の、抑制され秘められた思いを、自分の死後も持続させてたまるか、と、二人を接近させたのだ。そう考えれば、この映画の展開にも、辻褄が合うのかも知れない。(辻褄はあうけど、それが面白いのかと言えば、それはまた別の話だ。)