シネセゾン渋谷で『パビリオン山椒魚』(冨永昌敬)

シネセゾン渋谷で『パビリオン山椒魚』。いままで観た冨永昌敬の映画と比べると「冴えない」という感じ。オダギリジョーのキャラクターに頼り過ぎというのか、オダギリジョーが前に出過ぎるのを抑えられなかったという方が正確なのか。この映画はおそらく(商売としては)オダギリジョーなしでは成り立たないのだろうけど、だからといって一人の登場人物だけが中心になってしまうと、冨永作品そのものが成り立たなくなってしまうのではないだろうか。様々な登場人物がいて、様々なエピソードがあって、意味のない断片のように思われる細部が重ねられ、それが意外なところで繋がったり、どことも繋がらないけどふいに(無意味に)突出したりする、そういう運動=展開の冴えが冨永作品の面白さだと思うのだけど、そこにあきらかな「中心」ができてしまうと、そこを中心とする固定した配置が出来てしまって、そうなると(そられがどこにどう繋がるのか、どう関係づけられるかが不確定なままであることによって生じる)個々の部分や人物たちの「断片」であることの(不安定であるからこそスリリングな)面白さが消えてしまって、ただ、騒々しい「おふざけ」ばかりが延々と続くという単調な展開になってしまう。
この映画で最も魅力的な登場人物は、ぼくが思うにオダギリジョーの妹(この人は確か「亀虫」の妹でもあったと思うけど)で、この人物に冨永的な魅力があるのは、「お話」のなかでどのような意味(位置)をもつのか分らないけど何故かいて、意味があるのかないのか分らないまま、目立つわけでもなく(しかし意味=位置がわからないから妙に気になる感じで)何気なく存在しつづける人物だからだろう。(物語の最後の方で、その「意味」は一応明かされるのだが、最終的に意味はどうでもよくて、意味があるかないか分らないという状態のまま存在する、というところが面白い。)このような、自らの位置が不確定であることによって生じる「あやしさ」こそが冨永的登場人物が醸し出すいかがわしい魅力なのであって(それは人物だけの話ではなく、あるシーン=断片や細部が、全体のなかでどのような意味=位置をもつのか、それとも別に意味はないのか、が、よく分らないまま放り出されていて、それが意味をもったりもたなかったりすることは、事後的にしか決められないところが、冨永的な展開の面白さで)、そのような不確定な人物たちだからこそ、ふいに訪れる唐突な「関係づけ」(役割=関係の唐突な変化、配置の変換)に新鮮な驚きが生じるわけで、はじめからキャラクターとして「あやしい奴」と設定された人物たちが、いかに多様に配置されていたとしても、その人物たちがいかに派手にふざけてみせたとしても、それはただ単調なだけだと思う。
(オダギリジョーは実はバツイチではないらしいし、麻生祐未は姉ではなく母(あるいは愛人)だし、光石研香椎由宇の父と混同されるし、高田純次は「先代」と呼ばれ、杉山彦々は家族をもって新たに生まれ変わり、本物か偽物か分らないままキンジローは義弟となるし、津田寛治は村人と知り合いらしい。このような関係や役割の「不確定さ、あやふやさ」を動因として冨永作品は展開する。冨永監督が多くの場合家族を描くのは、一見役割=関係が明白であるようにみえて、実は結構いかがわしい、ということからだろう。)
●単純に、ナレーションを、オダギリジョーではなくて、作中人物ではあるけどあまり重要ではない別の誰かの視点にしたら、それだけで随分違ったのではないかと思う。声がやたらといいから梅本洋一などよいのではないか、というのは半ば冗談だけど。あと、音楽が、「音楽」としては良いのかもしれないけど、ちょっと説明し過ぎで、うるさい感じだった。