●引用、メモ。樫村晴香ストア派アリストテレス・連続性の時代」より。以下に書かれたことは、ものすごく重要なことだと思われる。
●《真理あるいはその開示が、そのまま善として倫理的価値をもつのは、開示の実体が転移だからであり、外傷の共有がそれを支える。真理はポーカーの札をめくることであり、自由とは、どのカードを取るか自由なことに過ぎず、幸福は、よいカードのことである。近代の自由の観念、哲学者を悩ませた自由と必然の関係は、この内部にある。無数の森と無数の街を、日々訪れ通り過ぎゆく者は、それを自由とも必然とも思わず、限定された選択とその帰結に身をまかす。円卓に座り、対戦相手と鏡像的関係を取り結び、自分がカードをめくった瞬間、他者が既に席を立ちゲームが放棄される可能性など夢にも思わない者だけが、共時的に並列化された選択肢の複数性と、自分が現実に取れるカードの単数性の落差に驚き、それを自由として概念化する。》
《ゼノンにとって、各都市は投資と債権回収の場所であり、外傷の共有に基礎づけられた真理の開示は既に過去のものである。ローマに至り、戦争と災厄は日常の政治となり、重なり合い交配し合う多民族の喧騒の中、時間は複線化し外傷は個人化する。アリストテレスがいまだ観劇者の場から劇を考察したのに対し、マルクス・アウレリウスにとって悲劇とは即観劇の行為であり、それを物のように外側から考察する。「人は忌まわしい劇に感動する。それゆえ忌まわしい現実もまた、苦痛以上の何かを与えるはずである」。彼は転移と真実ではなく、その基盤の欲動と一次過程の側におり、快楽と嗜癖を症候とした時代、つまり現代に住んでいる。》
●《ゼノンの世界をソクラテスプラトンから本質的に分かつのは、ソフォクレス的劇構造への距離である。(略)
ソフォクレスソクラテスを等しく魅惑したのは無知である。オイディプスは羊飼いに真実の開示を命令し、その開示が自らの近親相姦と身の破滅を開示することへの、自らの無知を知らず、クレオーンは自ら発した敵の埋葬の禁止令が、アンティゴネーと共に息子と妻を死に至らしめることへの、自らの無知を知らない。彼らが知らない真実を観客は既に知り、真理は開示されており、劇中人物の非知と観客の知の対称性が劇の遂行を可能にしつつ、観客はそのことに無知であり、オイディプスクレオーンの無知と、やがて生じる真理の開示を、現実とみなし、感動する。同様にソクラテスでは、単なる知の不在は非知ではなく無知であり、それは誰かがそれを知っているからであり、知っているのは当人でも哲学者でも、精神分析家でもなく、すでに原抑圧として開示/抑圧された知の無意識的主体である。そこで開示され、予期なく到来したものは、常に忌まわしく欲動と死に関係し、それ以来非知は無知となり、開示の再演として真理は到来し、そこでは常に魅惑的で妖しい善が開示される。
悲劇において災厄の到来が単なる出来事ではなく、無知と知の対立、真理の開示なのは、それが戦乱・悪政・疾病など都市国家の外傷、原抑圧として既に刻印済みだからであり、その知を既有する観客は、遅れて到来する舞台上の時間を一段上から二次的に体験し、しかしその二次性、時間のずれが意識されない限りで舞台は観客の症候となり、劇中人物は想像的に同化され、演劇は現実と混同される。災厄に賭けられているのは転移であり、単なる出来事は真実の開示となるが、最初の外傷を共有しない者にこの開示は生じない。劇を理解する者は、自分が劇を見ていることを常に知らず、その知らない場所に留まる限りで、劇/真理の周囲に配置される、正義や自由や幸福の感情が共有される。》