●時期外れの話だが、ぼくはM-1グランプリが嫌いだ。というか、コンクールという形式が嫌いなのだ。コンクールなんていう場で、本当に面白いことが起こるはずがないと思う。コンクールとは、コンクールという形式によって無理矢理に「熱さ」をつくりだし、それによって擬似的な盛り上がりを人工的につくりだす装置だといえる。そんな装置に、何の疑問もなく「乗っかって」しまうものが、面白いものであるはずがない。例えば、ダウンタウンの若手時代にM-1があったとしても、決してグランプリを穫ることはなかっただろう。しかし、審査員席にいる松本人志は、審査員という役割によってそのことを忘れてしまう。だからこそコンクールという形式は危険なのだ。審査員はその役割によって、演じられる芸の完成度を判定することは出来ても、ほとんど無根拠に行われるしかない「面白い/面白くない」という質的な判定をすることが出来ない。(「出来ない」というか、そこからズレてしまう。)そしてコンクールは、全ての観客を擬似的な「プチ審査員」にしてしまう傾向をもつ。人がお笑いをみるのはそれが面白いからであって、芸人の芸の完成度やその将来性を判定するためではないはずなのだ。M-1は、翌日の学校や職場での会話を盛り上げる素材を提供するかも知れないが、それは、お笑いそれ自体を「面白がる」ことから人を微妙にズレさせてしまう。そこでは、面白いことがあったからそれを人に伝えたくて喋るというのではなくて、あらかじめ用意された「語るフレーム」に沿って、喋らされているにすぎなくなってしまう。
●何にしろ賞というのは、自分で面白いものを見つけ出す嗅覚のない人、自分の目で「面白い/面白くない」という判断をすることが出来ない人のためにある。(例えば、ぼくが物理学者の論文を読んでも、その内実を正確には理解出来ず、その人がどの程度優秀な学者なのか、その人の言っていることがどの程度妥当なのか判定することは出来ないから、他の専門家たちの間での評判などを通して、それを推測するしかない、というようなものだろう。)だから、自分の目で何かを吟味し、判断しようとする人にとって、賞の結果というのはほとんど常に不満なものでしかないのは当然のことだろう。そういう人にとっては、はじめから賞など必要ないのだから。(とはいえ、賞を穫るものというのは、少なくとも何人かの審査員を説得し得るものであり、必ず何かしらいいところがあるものだとは思う。確かに、チュートリアルに実力があるということは、誰もが認めるだろう。しかし「何かしらいいところがある」ということと、「面白い」ということとは、微妙に、かつ決定的に違うのだけど。)
●賞とはつまり、それを受けた人へ与えられる栄誉というよりも、なにかしら「作品」のようなものを「売る」ことで「商売」を成り立たせようとする時に、それが流通する「シーン」全体を人工的に活性化させるために機能する、必要悪のようなものだと言える。それは、M-1グランプリだろうと、カンヌ映画祭だろうと、芥川賞だろうと、ノーベル賞だろうと、おそらくかわらない。(ただ、既に出来上がったものに対して評価が下されるのと、その場で、そのコンクールのためにパフォーマンスされるのとでは、やはり多少は違う面もあるだろう。)そしてそのような流通の(コミュニケーションの)ための「努力」としての「賞」を、意味がないとかダメだとか言い切ることは出来ない。そしてそれが、ある「シーン」を活性化させるためのものである以上、それは社会的な権力や権威とある程度結びついていなければ意味(効果)がない。そこにまた厄介な問題がいろいろと付着してくるのだろうけど(それは作家の「生活」や「仕事のしやすさ」には決定的な影響があるのだから、ぶっちゃけぼくも「賞」が欲しい)、しかし結局のところ、それはたんにその権威が通用する内部でしか意味をもたない「社会的」なものでしかない。M-1でグランプリを穫れば、テレビ関係者にその存在を知られるだろうし、向こう一年くらいの仕事には困らないかもしれないし、芥川賞を穫れば、その本は売れるかもしれないし、原稿料が上がって、作品がボツになることもなくなるのかもしれないけど、つまりそういうことでしかない。実際には、賞がその作品や作家の質(面白さ)を保証するものではないということくらい、本当は誰もが知っているのだ。賞は、その程度には(主に作り手にとっては)意味があるが、その程度にしか(主に受け手にとっては)意味がない。