●若い頃に「公募展」みたいなのに何度か応募したことがあって、当然のようにぼくのような作品では評価されることはなくて落とされるわけで、で、その展覧会を観に行くと入選している作品はだいたい酷いものばかりで、むしろこんな人たちと一緒にされなくてよかったと思い、ここはぼくが生きてゆくことの出来る世界とはまったく異なっているのだと思い知ることが出来てむしろ良かったとさえ思うのだけど、それでもこちらから積極的に応募したものが「落とされる」(拒否される)というのは、凹むというよりむしろどっと疲れるというか、エネメギーが無駄に吸い取られてしまうような、何ともネガティブな気持ちになるものなのだ。応募の規定を調べ、応募用紙などを取り寄せ、手続きをし、規定にあった作品を選び出し、梱包し、指定された日付にあわせて搬送する、等々の手間はそれなりに煩雑で、それは自分の普段の制作や生活上の都合に追加される手間で、多少なりとも無理をしてその手間を費やして応募しているのだが、その手間がすべて何の意味もない行為だったかと思うと、後からどっと疲労するし、自分は、一体何を期待してそのような手間を費やしたのか、期待をかけるべき場所を間違っているではないか、そんなスケベ心がそもそもダメなのだ、という思いが、さらに疲労を重くする。この徒労感の原因は、「相手方」の価値観は決して揺らぐことなどないのだろうなあ、という思いでもある。
今回の都知事選にしたって、まあ、おおかた石原慎太郎が勝つだろうとははじめから思っているわけだ。前回の選挙で三百万票を越える票を得た石原慎太郎の強さには絶大なものがあるだろう。現実として、それが簡単にひっくりかえるなどとは思えない。しかし、それにしても、午後八時まで投票出来るのに、午後九時頃にはもう当確が出ているというのはどういうことなのか。東京都のすべての市区町村で得票がトップだというのはどういうことなのか。こういう事実をつきつけられると、絶望という言葉は重過ぎるけど、世界に関わることに対する(あるいは、生きることに対する)ネガティブな疲労感のようなものが重くのしかかってくるのを払いのけることが出来ない。ぼくは、失望に値するほどの何かをしたわけではまったくない。公募展に応募する程度の手間さえかけていない。買い物の途中で近所の公民館へ寄って、鉛筆で人の名前を書いて箱に入れただけだ。こんなことに何にか積極的な意味があるなどとははじめから思ってはいない。(ともかくも選挙には行かなければはじまらない、みたいな考えをぼくは信用していない。「既にあるもの」としての選挙制度などで、何かがかわるなどとは思わない。だって、全てお膳立てされたなかで、ただ鉛筆で誰かの名前を書くだけなんだから。)それでも、あまりにもあからさまに容赦のない結果をみせられてしまうと、その結果が自分の感覚とあまりにもかけ離れたものであったりすると、公募展に応募して落選して、それに入選した作品たちを観て、自分はこのような作品を評価する人たちのことが理解出来ない(これを本気で良いと思っているのか?、それとも、ただ「こういう世界」で出世するためのゲームだと思ってやっているだけなのか?)、こことは別に生きていける場所を探すしかない、と思った時と同じような感覚(気分)を、いま、住んでいるこの場所に感じてしまうのをどうすることも出来ない。圧倒的に多数の人たちが、感じ、考えていることをどのように理解すればよいのだろうか、と。
(とはいうものの、ぼくのどこかに、「一票」には意味がある、これが「どこか」へ「繋がっている」ということへの「信仰」が多少でも残っているからこそ、この「徒労感」に襲われるのかもしれない。つまり、今回はもしかしたらイシハラが落選する可能性もあるのではないかというスケベ心があったからこその「徒労感」なのではないか。まあ、この「信仰」がなければ、もともと投票なんてしないわけだが。しかし、投票箱に投票用紙を入れることが、賽銭箱に小銭を入れるよりは、多少は現実的な効果を期待出来る行為であるということを、現代の日本において信じてよいのだろうか。そんな懐疑は結果として「体制側」に有利に働くだけだという言葉が正しいとしても、この「懐疑=気分」が消えるわけではない。)
これはたんなる気分の問題でしかない。ぼくがどのような気分であろうが、「石原慎太郎が有効投票数の約半分を取ってしまうような世界」が現実にあり、今後もつづくであろうことにかわりはない。(そしておそらくぼくは、そういうところでなんとか身過ぎ世過ぎして生きてゆくしか仕方がない。)このような現実は、「石原慎太郎の問題点」を正しく指摘するだけではまったく揺るがない。もし揺らぐとしたら、石原慎太郎がやり過ぎたことに対する結果がごまかし難く露呈し、大きな「揺り戻し」がくる時くらいだろう。(そしてその時はおそらく、既に石原慎太郎は責任ある立場にはいないだろう。)つまりそれはほぼ力学的な問題であって、そこでは「言葉(言論)」の力はほとんど作用していない。
(正しいことを言うことに意味がないと言っているのではない。正しいことを言うことはそれ自体として意味がある。しかし、人は決して正しいことでは動かされない。正しいことを言おうとする人は、それを承知で常に孤独に、何の力ももたずに、現実上の効果とは無関係に、ただ正しいと思われることを繰り返し考え、言い続けるしかない。「正しいこと」を言っているのだから自分の立場は正当化されるべきだなとど考えるのは、多分間違っている。そんな正当化されるべき基盤などどこにもないというところで考えるしか、考えることは可能ではない。そしておそらく「人を動かす=現実上で効果をあげる」ことは、それとはまったく別のことだ。そして、石原慎太郎こそが、見事にそれをパフォーマティブに示している。ではしかし、それと同じ土俵に乗って、それに対抗することが良いことなのだろうか。「良く」はなくても、そうする「必要」がある、ということはあるかも知れないけど。)
人気者は、人の弱さをうまく利用する。人が基本的に、怠惰で甘ったれで頭が悪いということをよく知っている。それに対して「正しさ」で抵抗しようとする人たちは、往々にして、人が基本的に怠惰で甘ったれで頭が悪いことに対して、あまりにも不寛容なのかもしれない。何にしろ、多くの人に支持されることには何かしらの「意味(理由)」がある。その「意味(理由)」の重さや動かし難さについてこそ、考えなければならないのだろう。
反イシハラを表明するだけで何かを言った気になったり、自分の正義の位置が確保されると思ったりすることは馬鹿げている。石原慎太郎がいてくれるおかげて、反イシハラで盛り上がり、吹き上がることが出来る、というのではどうしようもない。それこそ、石原慎太郎に依存しているということだろう。
●ぼくはずっと、2004年のアメリカの大統領選挙のショックをひきずっている。様々な思想上、利害や利権上の対立はあるだろうけど、最低限、ブッシュではダメだというコンセンサスくらいは成り立つのではないかという希望をもっていた。そのくらいのことならば多数の人たちに共有され得るだろう、と。ブッシュの再選はないだろうと、甘く考えていた。しかしブッシュは再選を果たした。このことを、つまり、自分の感覚と世界の現実的な有り様との乖離を、どのように考えるべきか、そのなかでどのようにあるべきなのか、よく分らない。
●付け加えるならば、選挙というものに多少でも意味が見出せるとしたら、国政選挙とか都知事選挙とかいう大きなレベルではなく、市議会議員選挙くらいのレベルのものくらいではないだろうか。いわゆる(声のでかい、仕切りたがりの)政治屋みたいな人とは異質な、様々な経験を積んで来た、様々なタイプの人(変な人)が、政党とか土地のしがらみとかとは無関係に、少しでも多く市議会議員とかになれれば、その地域は多少でも住み易くなるのではないか。勿論、そこで出来得ることはきわめて限られているのだろうが。