●例えば「ピカソのようなわけのわからない絵」と人が言う時、それはたんなる慣用的な表現で、その人は実際に「ゲルニカ」だったり「アヴィニョンの娘たち」だったりをイメージして言っているわけではないだろう。(というかそもそも、具体的にピカソの作品をイメージできる程度の教養がある人は、決してそのような言い方はしないだろうけど。)とはいえ、「ピカソみたいな絵」という言葉が出て来る以上、その人の頭のなかには、どんなにおぼろげであったとしても、実際のピカソの作品とは似ても似つかないものであったとしても、何かしら「ピカソ的なもの」のイメージがよぎってはいるはずだと思う。そのピカソって、どんなピカソなのだろうか。その時、それを言った人の頭をよぎった「ピカソ的なもの」のイメージがどのようなものなのかは、その言葉を聞くだけではわからない。「ピカソのようなわけのわからない絵」という、考えられるかぎり最も陳腐な慣用表現の裏で、もしかするとピカソ以上に面白いイメージが(あるいは奇怪なイメージが)よぎっているかもしれないのだ。だが言葉は、それを表現しない。言葉を言葉としてしか読まない人は、そもそもそれを問題にさえしない。