08/04/01

●小高い丘のてっぺんにある、鉄棒とジャングルジムが置かれているだけの小さな公園に、そのつつましさに不釣り合いなほど背が高くて立派な桜の木が十本くらい立っていて、でもその木が桜だとは今まで気にかけてなかったから知らなくて、ちょうどそれが今満開で、その丘からじくざく状の階段になった急な坂道を下った下にある小学校の前の道を通っている時に、丘の上にびっくりする程の桜の花の塊が見えて、うわっすげえと思って、その塊を目印にして迷路のように入り組んだ住宅街を辿ってゆくと、公園に出たのだった。その公園はいつも人気がなくてひっそりしていて、住宅街のなかの人のいない公園に見馴れない中年男が一人でぽつんといるというのはそれだけで怪しく、人を警戒させてしまうような情景なので、普段はそこは通り過ぎるだけなのだが、「桜を見ている」という言い訳があればなんとか許されるんじゃないかと思って、今日はしばらくそこにたたずんでいた。午後六時前くらいの時間で日はかなり傾いていて、公園は高い位置にあるから、太陽の光は真横からというより、斜め下くらいの方向から花に当たっていて、光を通過させる半透明な花びらのごちゃごちゃした重なりは、異様な感じで白く輝いて見えた。
●午後は喫茶店で、先月の中頃に行われた人気有名アーティストと大御所二名との座談会の原稿をチェックしていた。自分が喋ったことが文字に起こされているのをはじめて読んだのだけど、これはスペースの都合もあって仕方ないのだろうが、喋ったことが文字になっているというよりも、喋ったことが要約されていると言った方がよいくらいに圧縮されて、構成されていた。あの日の、煩雑でとりとめもなく長くつづいた話(三時間半くらいつづいたた)を、よくもこんなに纏められたものだ、この記事を書いた人は相当苦労したんじゃないだろうかと感心する一方、ここまで纏められると、言おうとしたことの趣旨やニュアンスにかなりのズレが出て来てしまうというのも事実なので(勿論それは仕方ないことで、記事を書いた人に対する不満を述べているわけではない)、自分の名前がついている発言である以上、これはこのまま出すわけにはいかないという箇所がかなりあって、しかし、スペースの制限があるので、直すにしてもほぼ同じ字数で直すしかなくて、つまり、これでは足りないというところを書き足すという直し方は出来ないから、表現の仕方や例の出し方そのものをまるっきりかえてしまうしかないという部分が何ヶ所かあった。これは、その日の発言を修正するのではなくて(前後のつながりもあるし)、同じことを言うために違う言い方を探す、というこだ。で、記事の字数を数え、この字数でなるたけ正確に言うにはどのような表現があり得るかを考え、それを紙に書いてまた字数を数え、削除可能なところを削ってまた数え、うーんと唸ってまた別の表現を探す、みたいなことを延々やっていた。
美大生を中心とした若い人を読者層としている雑誌の都合上、そんなにつっこんだハードな話にはなっていませんが、こんなに噛み合ないものなのか、という、四人のちぐはぐさが笑えて面白い、という記事にはなっていると思いました。でも、普通、会話ってそういうものなんだとおもいます。噛み合ない四人の話が混沌に陥ってしまわなかったのは、進行役の人気有名アーティストの準備と配慮と人柄のおかげだと思います。今月の下旬に出ます。
●あと、どうでもいい話だけど、ぼくの発言の最後に「~だと思いますね」みたいな、同意を求めるのではなく、ちょっと生意気っぽく挑戦的に響く「ね」がついているところがいくつか目について、ぼくは普段あまりそういう喋りかたはしないと自分では思っているのだけど、無意識のうちに出たのか、それとも、そういう風にキャラづけしようという意図があるのか。(思い過ごしです。)