●ぼくは複数の原稿を同時に構想したり書いたり出来なくて、あるものを書いている時はほとんど全身でそれに没入しているので、一つを終わらせてから次の一つを一からはじめるしかない。ずっとやっていた作家論がとりあえず終わって(まだ、後で書き足す予定だけど)、そのゲラの直しも返して手が離れ、『アキレスの亀』のレビューを書いて送り、さらに、今月の十一日にやった対談の原稿のゲラを直して昨日送ったというのがここ一週間くらいのことで、ようやく来月三日が締め切りの、ある超有名な画家(あまりに有名過ぎて、この人について新たに書くことなんかあるのか、というくらいに有名)についての原稿にかかることが出来る。とはいえ、ちょっと前から、時間があれば、ウチにある画集をパラパラながめて、ぼんやりと考えて、少しずつ頭を慣してはいたのだが。
しかし、ウチにある画集だけではあまりに限りがあるし、近所の図書館にはまともに画集などないので、出身大学の図書館にまで出かけることにした。ただ、ぼくはたんなる卒業生で大学の関係者ではないから、画集は閲覧が可能なだけで、借り出すことは出来ない。その画家の、ぼくが書きたいと思っている時期の、エスキースなども含めたほぼ全ての作品が載っている画集があって、おーっ、さすが美大の図書館、とか思って、パラパラ眺める。画集は決して「書くための資料」ではなく、そこから「何か」を得るために観ているのだから、パラパラとページをめくってぼんやり眺めたり、画集から目を話してぼーっと考え事をしたり、一旦外に出て、屋上から景色を眺めたり(大学は森林の中にいきなりあるという感じなので、周囲ではまだアブラゼミとツクツクホーシが元気よく鳴いていた)、また戻ってパラパラしたりする。詳しい画集があると、画家の探求の息づかいが生々しく感じられて、とても面白いのだが、しかしあまりに細か過ぎる資料は、実証主義的な研究者みたいな能力が皆無なぼくに、なんちゃって実証主義みたいなものを書かせてしまう罠にも成り得るなあとも思ったのだった。美術について何か書く時に難しいのは、実際にその作品が目の前にあるわけではないというところだ。少なくとも、画家であるぼくにとっては、詳しい画集や資料があるよりも、たった一点でも作品が実際に目の前にあることの方が、ずっと「動かされる」ものがあるはずなのだが。とはいえその画集はとても面白くて、今までまったく知らなかったいつくもの非常に重要な作品があることを知り、あらためてその画家の巨大さを感じた。
画集を観ていると、感じることや思うことはたくさんあるのだが、まだ全然、それが一つの文章へとまとまってゆく気配がみえない。