●京橋の南天子画廊で岡崎乾二郎展、歌舞伎町のスカラ座で『崖の上のポニョ』(宮崎駿)。『ポニョ』が凄過ぎて、岡崎展の印象が薄れてしまうくらいだった。
突っ込みどころが満載の映画なのだけど、何を突っ込まれても、どんな批判をされても、そんなの痛くも痒くもない、怖いものなど何もない、「これがオレなんだ」というところまで徹底的に開き直ってやり切った、これぞ宮崎駿という映画だった。観ている方がびびってしまう程にやりたい放題で、本物の作家が、なりふり構わずやりたいことをやり切ると、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかいう評価など何の意味のなくなって、とにかく異様な力が目の前を通り過ぎて行くのを、ただ唖然として眺めていることしか出来ないのだなあと思った。子供にこんな映画を観せたら一生のトラウマになるのではないか。はじまった瞬間からずっと鳥肌がたちっぱなしだった。正直に言えば、終盤は辻褄会わせに終始している感じで、ちょっと退屈なのだが(あんな、グレートマザーみたいな存在を持ち出して事態を収束させるのは、誰がどうみたって安易過ぎると思うだろう)、前半から中盤にかけての気の狂ったとんでもなさこそが凄いので、そんなことは些細なことだと思ってしまう。「何故ポニョなのか」「何故宗佑を好きになるのか」「何故母親は嵐のなかを街に避難せずに強引に家に帰ろうとするのか」「何故いきなり手足が生えてしまうのか」「そもそもあのマッドサイエンティストみたいな奴は何者なのか」「というか、そもそもポニョとその姉妹たちとは何なのか」等々の事柄の全てが何の説明もなく、いきなり「そうだからそうなのだ」と断定され、その断定を受け入れるしかないような、有無を言わせぬ強い力の作用が画面を貫いている。今まで、宮崎駿に関しては、凄いとは思いつつ、常に一定の抵抗を感じ続けていたのだが、そんな「抵抗」を感じてしまう自分がバカバカしくなってしまうような気の狂った力が吹き荒れている。
ポニョは、人面魚ポニョ、半魚人ポニョ、人間ポニョという三種類のイメージにメタモルフォーゼするのだが、その力の源はあきらかに半魚人ポニョで、ガマガエルのようなグロテスクなイメージの半魚人ポニョ(楳図かずおの半魚人やヘビ少女を想起させる)が、嵐のなかの荒れ狂う波の上を走っている場面は、中空を走っているかのようなコナンの疾走をはるかに上回る、宮崎駿の全作品中でもっとも強いイメージなのではないだろうか。この力は、世界の根底にある暴力そのものの露呈とも言えるもので、好きな男に会うためだったら全世界が崩壊してもかまわないという、根本的な倫理の崩壊のなかからしかあらわれないものだろう。これは、今までの宮崎駿の作品にあらわれていた「高貴な少女」のイメージを完全に崩壊させるもので、これをやってしまったからには(「高貴な少女」の背後にある制御不能な力を半魚人ポニョのイメージとして「見える」ようにしてしまったからには)もう二度とは元には戻れないと思う(今までは、このような力は「オーム」のように少女からは分離されたものとしてあらわされていた)。コナンやルパンの疾走は、(技術によってコントロールされ、無害化された)純粋に抽象的な快楽だけど、半魚人ボニョの走りは、暴力的な欲動の力の露呈であるように思われる。