●『ウルトラミラクルラブストーリー』(横浜聡子)をDVDで。すごい面白かった。冒頭から、溢れるような津軽弁と奔放すぎる松山ケンイチの動きに圧倒されつつ、とはいえ、この勢いだけで最後まで突っ切るのはきついし、すぐに単調になってしまうのではないかという危惧を感じもしたのだが、冒頭からの「押し」にやや飽き始める頃になると、農薬による主人公の変化が起こり、それとともに映画の調子も変化する。二度反復される、自転車を押す麻生久美子松山ケンイチが「一緒に帰る」場面の、きわめてオーソドックスでありながらもしっとりと魅力的な場面の構築は、この映画がたんに押しと勢いだけの作品ではないことを確信させるだろう。そして、中盤での予想外の展開に驚かされると、その転換点の後は、いままで松山ケンイチから一方的に「見られる」存在だった麻生久美子が、松山ケンイチを「見る」存在へと位置を移動する。そしてその後の展開が…。
ここで麻生久美子松山ケンイチへの冷静な距離感が、この作品の聡明さと残酷さを証明しているように思う。彼女は彼に巻き込まれ、彼を受け入れはするが、それは保育士として子どもに接するのと同様の態度によってであり、「陽人」と「町子先生」は「両思い」になったわけではない。松山ケンイチの存在はあまりに特異であり、彼自身として自律したもので、よって孤独である。彼は、あくまで彼自身として、独自に行動し、独自に生き、そして独自に死んでしまう。そこに麻生久美子が介入する余地はなく、彼女は彼をただ「見届ける」ことしか出来ない(彼の死にダメージを受けているのは、ただ祖母だけのようにみえる)。
しかし、「陽人」は死後「脳」となって、「町子先生」に死んだ恋人の失われた頭部の代替物を与えることになる(しかしその脳は…)。麻生久美子にとって必要(問題)だったのは、常にこの「死んだ恋人の失われた頭部(の代替物)」であって、松山ケンイチではなかった(おそらく、この頭部=脳を得ることよって、彼女は何かを吹っ切るのだ)。だからこの映画では、松山ケンイチが独自で孤独なのと同様に、麻生久美子もまた、ずっと孤独に自身の問題のなかに生きている。しかしその二つの交わらない線は、「陽人」が死んで「脳(物)」になることによってはじめて交わる。これはきっつい皮肉であると同時に、とてもざっくりとした奇跡であり、感動的なことだ。この映画では、「陽人」という存在のピュアさが単純に礼賛されているわけではないが、しかし、決して皮肉な調子に陥ってもいない。クールな距離が保たれ、観察されつつも、その存在の肯定に貫かれているところが、なによりもすばらしいと思った。
この映画はきわめて知的に制御され、構築されているようにみえる。それは人物の配置にもあらわれていて、特に藤田弓子の存在がすばらしい。この、イタコだか占い師だか教祖様だかよく分からない人が、分かったような分からないようなこと(しかしすごく「いいこと」)を言うことによって、この映画の厚みはぐっと増しているように思う。そして、葬式のシーンで歌われる「ドンパン節」がすばらしい。
この映画では津軽弁が溢れ、実際に青森で撮影されているらしいのだが、そこには、地方性や土着性は感じられない。風景は、特定のどこかの風景というよりも空間として捉えられており、それは極めて抽象的な場所での出来事のようにみえる。
この監督は、今後、もっと面白くなってゆくと思う。
●この映画がすごくよかったので、夕方、ツタヤに『ジャーマン+雨』を借りに行ったのだが、貸し出し中だった。