●桜が満開というような映像をあちこちのニュースで観たのだが、近所の桜はまだあんまり咲いてはいない。中央線で都心へ向かうと、国分寺を過ぎたあたりから、窓の外の風景に桜が目立つようになる気がした。
●東日本橋のギャラリー・ハシモト(http://www.space355.jp/main.html)でやっている金田実生展(笑って眠る)にあった「爆発のはな」という作品が気になってずっと観ていた。作品としての完成度とか気合いののり方とかで言えば、入り口をはさんでその右隣に展示してある紙に油絵の具で描かれた作品の方が上手くいっているのだろうけど、「爆発のはな」の、どうやってこの絵が出来たのか分からない感じにひっかかって、ずっと観てしまうのだった。
グレーで描かれた、花びらとかレンコンのような二つの丸い形があって、その上から、そのそれぞれに、すこしズレつつ、ブルーとグリーンの同じような丸く広がる形が重ねて描かれている。この図像的なイメージだけをとってみれば、特に謎はなく、よくあるイメージとさえ言える。でもぼくには、そのなかのブルーの丸い広がりが、どういうタイミングで画面のなかに侵入-成立したのかが掴めなくて、そしてその「掴めない」ということによって、ブルーの丸い広がりの新鮮さが、観ている間じゅうずっと持続していた。それ以外の作品は、作品としての良し悪しは別として、作家が作品を組み立ててゆく筋道や手触りがなんとなく分かるように思う(本当に分かっているかどうかは極めてあやしいが、なんとなく分かった気にはなれる)のだが、このブルーは、そのような気にさせてくれない。
このグレーの画面のなかにこの右側のグリーンが出てくるというのは、まあ、納得できる自然な流れの範疇にある、というように思えた。しかしその左隣にある、ややナマっぽいブルーの出現はいかにも唐突で、しかしその唐突さによって、この絵が成り立った、と感じられるようなものだ。そしてその「この絵が成り立った」瞬間であるはずの「ブルーの侵入」という出来事が、制作のどの段階で起こったことなのかが、画面を見ても予想がつかない。この「予想のつかなさ」は、制作手順の問題だけではなく、作品というフレーム内での時間的な構造(順序と位置)の問題で、それが確定されないことが、この作品全体を時間の外に押し出すかのように感じられる。時間的な順序と位置の不確定さは、空間的な位置の不確定さでもあり、このブルーはこの画面のなかできちんと着地しているのか、それとも浮いているのか分からない、同時にどちらでもあるようなあやうい状態(たんに浮いているだけなら、最初は鮮やかに見えてもすぐに飽きてしまう)がキープされ、このブルーは謎そのもののように出現していて、それが謎である限り、ずっと見続けていてもブルーから受ける感覚の新鮮さは失われない。ブルーの根拠は分からないままであり、しかしその根拠の分からないブルーの侵入という出来事によってこの絵が成立したかのように見えるので、この絵全体の成立の根拠も剥奪され、作品もまた謎のように宙に浮く。
簡単に言えば、この絵、なんかよく分からなくて面白いなあと思って、ずっと観ていた。