●『ピストルズ』の第三部まで読んだのだが、第三部の「局部麻酔」が超おもしろかった。「なんだこれ」というような「悪ノリしすぎだろ」というような面白さ。昨日聞きに行ったトークで作家は、「『シンセミア』はアッパー系だったけど『ピストルズ』はダウナー系だから、ずっと抑制して書かなければならなくてキツかった」みたいなことを言っていたけど、こんなにやりすぎなくらいにやっておいて「どこが抑制 ? 」という感じ。
二項対立(と役割の交換)という図式が、図式自身をひたすら細分化して重複し展開してゆく、図式が徹底して自己目的化したような、小説がひたすら図式(の展開)に奉仕しているような感じ。だからここでは、もっともらしさという意味でのリアルさはまったく問題にされていない。それが、ほとんど「ふざけてる」としか言いようがないくらいに徹底されていることに唖然とさせられる。こういう言い方は作家にしてみればはまったく不本意だろうとは思うけど、だからこの第三部には「内容」というものがほとんどない、と言ってしまってもよいのではないか。そしておそらく、阿部和重の小説は、内容がなければないほど躍動し、面白くなる。
勿論ここには、具体的な日付が書き込まれることによる小説と現実の歴史との接続があり、七十年代のある種のカルチャーが(「厚み」をもたせるものとして)背景にあり、(よくわからないけど)過剰に出てくる植物によって裏目読み可能な意味の付着が(きっと)あり、等々の、表面的な展開とはことなる、別の層での展開が多数仕組まれてはいるのだろうけど(そして、そこを読むにはもっと精読が必要なのだろうけど、でも、そこに過剰にはまるとこの小説の面白さを取り逃がす気がする)、でも、普通に読んでいてみえてくるのは、図式それ自体が自身を細分化しつつ展開してゆくという運動であり、それが、自動的、機械的、あるいは音楽的、というよりもむしろ「悪ノリ」としか言いようのない手つきによって進行してゆく様だろう。
だから、この第三部を読む快感は、図式の悪ノリ的な増長によって言葉がどんどん現実やリアルさ(という重力)を裏切り、踏みにじって、突っ走ってゆく(「内容がない」というのはこのような意味でだ)、その小気味の良さにあるように思う。
●昨日聞いたジュンク堂トークで、阿部和重の声としゃべり方が誰かに似ているとずっと思っていて結局誰だか分からなかったのは、二時間持続するデ・ジャヴだったんじゃないだろうか。