●原稿を送信して少しホッとしたので、外をぶらぶら歩きたいのだが台風なのでそうもいかず、部屋でなんとなく『金沢』(吉田健一)を手にとって読み始めたら、すごく面白くて引き込まれた。
特に、書き出しの、最初の三十ページくらいがすごい。谷崎の『蘆刈』の書き出しと拮抗するくらいのすごさだと思う。だが、谷崎はどこか物語文学の豊かな源泉のようなものに遡行してゆく感じがあるけど、吉田健一はあくまで、現在という時間の直接性のようなものの場所に留まる。その独自の「趣味」は、あくまで現在時に留まって踏ん張るための足がかりのようなものとしてあると思う。物語−過去(深さ)へと遡行しないための、趣味−現在(平面性)。歴史も時間の厚みも、あくまで現在という時間のなかにある、という感じ。それは、複数の時間を平面として同時に受け取るというような、過剰な現前となり、常に狂気−混沌(崩壊)と紙一重のやばい感触がみなぎる。小金を持った道楽親父ののんきな趣味、みたいなものによって、崩壊をギリギリに食い止めている、不安定で、とげとげしくさえある感じ。とはいえ、話が幻想小説風に展開してゆくと、やはり芸や趣味の方が勝ってしまうのだが…。
小説は基本的に出来事を「過去」として書くことしか出来ないと思うのだが、吉田健一の小説の形式的な過激さは、それを、書くこと、読むことの「現在」に、出来る限り還元してしまおうとしているところにある気がする。出来事を語るのではなく、語ること(想起すること)の現在性において何かを現前させる、というような。いきあたりばったり風の書き方は、次に何が起きるのか、語られ、書かれる、その瞬間まで不確定であり、それは語られ、書かれる、その現在に左右される、ということを可能にする。もっと先までつづけようと思っていたことが、途中で飽きてふいに途切れてしまったり、別な方向に突然ジャンプしてしまったり。それは、展開として制御された意外性ではなく、現在が強いる予測のつかなさ、きまぐれさ、であるのだ。一見、筆を自在に操る名人芸のようにもみえてしまうが(そして、確かにそうなってしまう傾向はあるのだが)、そうではなく、それは現在時の過酷な直接性に常に対面するということなのだと思う。イメージとしては、吉田健一の小説は吹き晒しのバラック小屋みたいな感じの過激さがあって、最低限の雨風をしのぐ(外から区別される)ためのテリトリーは構築するが、そこにはかなり激しく外の光や風が、つまり容赦のない現在時が入り込んでくる。
そのような隙間だらけのテリトリーの立ち上げを可能にしているのが、話者と主人公の距離の伸縮のおどろくべき自在さだと思われる。主人公の内山は、最初は話者にとってとても遠い感じで、どこかでその噂を小耳に挟んだだけで会ったこともない、みたいな距離感で登場するのだが、それがすぐに、内山=私(話者)と言ってもいいんじゃないかと思うくらいに近づきもする。常に、今、誰かが語っているという現在性が持続しつつ、内山について語っている、と、内山が語っている、とが、ほとんど区別がなく連続している。小説を読んでいる時の感覚としては一人称で「内山が語っている」感じなのだが、語っている内山が、時に内山自身からすごく遠くなる。とはいえ、現在の内山が過去の内山について語っているという感じにはならないように、語っている内山が「語りつづけている」限りにおいて、自分自身を生み出している、という風になっている。だから、語る自分が語られる自分を生み出しているというよりも、語ることそのもの(語るという現在時)が、語る自分と語られる自分とを、共に、同時に、生み出している。
●上記のこととはあまり関係ないが、面白いと思ったところをメモとして引用する。《その時に木が何と言ったかは木と話し掛けられた人間しか知らないことである》っていうのがすごい。「木は話し掛けたりしない」というのが科学的だと言うならば(実はそれは科学的なのではなく、たんに平均的であるに過ぎないのだが)、それはたんに「木に話し掛けてもらったことのない」不幸な人が、「お前が話し掛けられたのなら、俺も話し掛けられるはずだろ、俺は話し掛けられてないんだから、そんなの認めない」って言っているだけだ、ということになる。『金沢』より。
《金沢のように町であるのみならず町であることが少なくとも何百年か続いた所ならば化けもの、幽霊が出でも可笑しくなかった。例えば大木の老樹の類はその精がいるということがなくてもその木自体が既に一つの存在であり、そのことが確かである時にその存在というのが木とは別な形を取って何か働きをすることまで及んでもそれは我々が木から受ける印象に背かない。(…)家はそこに住む人間から生命を得るもので既に生き物であるならば一軒の家にその家が住んでいるとも言える筈である。又それが言えない家は人が住んでいても、或はその中で兎に角動き廻っていても空き屋でしかない。》
《それで又化けものや幽霊のことになる。昔ものの怪がどうだったのであっても化けものや幽霊が人間に仇をするものと決めるのは自然というものの範囲を勝手に狭めて超自然というようなことを持ち出すからで科学で木というのが科学の領域で木が取らざるを得ない形のものに限られている時に木に声があるのを超自然のことと見る必要はない。その自然そのものが科学、或は我々の日常の経験、或は要するに人間の間で平均して通用していることではその一部しか尽くせるものでない。どこかに古くから生えている木に声があって人に話し掛けてもいいではないか。又それが悪意を持ってであると思って気味悪がるのは野蛮人の未知のものに対する恐怖というもので木は実際にその葉が擦れ合うだけで我々に話し掛けてその時に木が何と言ったかは木と話し掛けられた人間しか知らないことである。》