●吉祥寺の「百年」で西川アサキさん、金子遊さんとのイベント。二階にある百年へと上ってゆく階段の途中で下ってくる西川さんとばったり会う。初対面が階段の途中というのはいい感じではないかと思う。お客さんにどの程度伝わったのかは自信がないけど、トークはぼくにはすごく面白かった。というか、百年の近くの喫茶店での事前の打ち合わせから、駅前の居酒屋で延々七時間近くつづいた打ち上げまで含めた一つの流れとして、とても貴重な時間だった。西川さんも面白い人だけど、西川さんの友人もみんなすごい人たちで、今、自分がとんでもない場にいるのだなあと感じた。
●それにしても、哲学にコンピューターが接続されることで起こる風景の変化には恐ろしいものがある(それは思考に人間の外が入ることで、自動書記に近いことなのかもしれないと誰かが言っていた)。西川さんは、『魂と体、脳』という本のシミュレーションはまだまだ甘いもので、現在の水準ならもっとずっと詳細なものがつくれるはずだと言っていたが、それはちょっと気が遠くなるような話だ(この本に書かれているようなことをやっていたのは十年近く前で、ここ数年は粘菌の研究をしていたそうだ)。
●西川さんの本の面白いところの一つに、哲学的な概念をシミュレーションとして走行可能な形に翻訳する、その手続きや過程の面白さがある。この翻訳過程が、「そうか、そういう風にも考えられるのか」という驚きや新鮮さとなる。打ち上げの時に聞いた、「ベルグソンの記憶の円錐モデルを利用した、変動する世界に対応するプログラム」とかも、すごく面白かった。
●打ち合わせの時に確認されたぼくと西川さんとで共有された認識は、多くの人から科学や哲学や芸術への信頼(あるいは「それは貴重なものなのだ」と思う感覚)が失われていることをどう考えればいいのかという事だった(それは、自分自身も含めて、自分のなかにもそのような感覚がないわけではない、ということ)。それは抽象的な話ではなく、ある具体性をもった感触としてある。例えば、アンゲロプロスが今、三十代くらいの、新人としてそこそこ評価された映画作家であったとして、これから『旅芸人の記録』のような野心的な作品をつくろうとしているとしたら、きっと資金を集めることが出来ないだろう、というような話。つまり、かつては、野心的な作品をつくることには意味があるのだということが、『旅芸人の記録』を製作可能な資金を調達できる程度には(社会的に)信じられていた、ということ。そして現在は、その信が社会からほとんど消えてしまった。西川さんはこのことを、「複雑系の死」という言い方で言っていた。かつて複雑系の研究は世界像を書き換えるものとして流行っていたが、その研究は今では「で、それは何の役に立つの?」という問いの前に不可能となってしまった、と。
たんに「このような風潮を嘆く」とか「抗する」というのではなく、それにはどんな原因があり、意味があり、必然性があるのか、ということまで含めて考えてみたい、ということ。たんに不況でみんな余裕がないということだけが原因でもないと思う。西川さんが、何故、既に「中枢」などなくてもシステムは動くことが常識となった今、あえて「中枢」についての本を書くのか(このことの意味は、研究者仲間にはなかなか理解されなかったと言う)、あるいは、ドゥルーズが何故「欲望機械」という概念の後に、そこから後退するかのように「有機体」について考えなければならなかったのか、ということもまた、この問いに通じる。
●打ち上げまで含めた長い話の末のぼくなりのとりあえずの結論は、芸術や哲学は、「死ぬのが怖い」という「感情」が「偽の問題である」ということを「実感できる」ようになるためにある、となった。縮めると、「死が偽の問題であることを実感する」となって、アラカワの「死なない」とはちょっとズレてくる。おそらく「死」は消えることなく何度でも回帰するので、その都度何度も、改めて、それが偽の問題だと(それなりのアップデートバージョンによって)実感し直す必要があるのだと思う。
トークに来て下さった清水高志さんが、「日仏哲学会に行ったら発表する人のほとんどがラトゥールを引用していた、ラトゥールはフーコー並みに偉くなるんじゃないか」と言っていた。そのような風潮が日本の本屋さんの人文書の棚にあまり反映されないのは何故なのだろう。アカデミズムと商業出版が分離してしまって、「流行」を「輸入」することが出来なくなっているということなのだろうか。輸入して下さい、と出版社と翻訳者にお願いしたい。