●『ジャンゴ 繋がれざる者』をDVDで観た。うーん。なんで多くの人がこの作品を痛快な娯楽として受け入れられるのかがぼくにはよく分からない。観ていてひたすら気が重くなる。アメリカの保守派のおっさんたちが「キーッ」となるようなものを世界的な商品としてつくって流通させてしまうというのは皮肉としては確かに利いているのかもしれなし、そういう意味で「政治的に意味がある」かもしれないけど。
●例えば、黒人奴隷に対して非道の限りを尽くす人物が、立場が逆転して、黒人から鞭打たれあっさり無残に殺される時、どうしたってスカッとした気持ちというか、溜飲が下がるという感情が起動する。しかしその一瞬後に、自分が「スカッとする気持ちをもってしまった」という事実に対して、そこでスカッとしたことの痛快さよりもずっと深く落ち込むことになる。あるいはラストのヒロインの「してやったり」的な表情を見て「魅力的だ」と感じてしまう---そういう感情に共振してしまう---自分に対して絶望的な気持ちになる。この作品は、我々がこの作品を観て「痛快だ」と思う感情が働いてしまう限り、我々の世界はこの作品が描くようなものから決して離脱できないのではないか、という呪いを示しているように思われる。そういう意味で、映画に責め立てられているような気持ちで観ていた。
宮崎駿が「悪人をやっつければ平和がくるという映画はつくらない」と言ったというのは有名な話だけど、しかし我々はどうしたって、ヒーローが悪人をやっつける、あるいは酷い目にあった人が復習を果たすところを見ると気持ちよくなってしまう。その悪が悪辣に描かれていればいるほど一層そうなる。その快楽には抗しがたく強い力がある。しかしその快楽に抗しなければたぶん世界はかわらない。悪人をやっつけても自分が気持ちよくなる(あるいは「自分の怒り」が多少晴らされる)だけだということをなかなか実感できない。
●さんざん酷い目にあわされてきた主人公が、とうとうキレて白人たちを皆殺しにするという行為自体は、簡単にとがめることは出来ないかもしれない。しかし我々観客は、自分が酷い目に合っているのでもないし、自分の手を汚しているわけでもないのに、それがいくら「酷い奴ら」だからといって、人が殺されているのを安全な場所から覗き見して気持ちいいと感じてしまうというのはどういうことだろうか。酷い白人たちが殺されるのを観て観客が喜ぶことと、この映画の白人たちが、黒人同士を殺し合わせて喜ぶことと、一体どこが違うのか。背後に正当化できるものがあるかないかの違いでしかなく、快楽の質は変わらないのではないかと思う。だとすれば、自分がその「酷い白人」でなかったのは、たまたまそのような位置にいなかったというだけではないか。
●誰でもが日々ストレスを感じながら生きているのだとする。そのようなストレスを解消するために、「酷い目に合っても忍耐強く生きている人物がいて、しかしそのような人物であってもどうしても許せない何かが起こり、キレて、逆転して、酷い目に合わせられた奴らを皆殺しにする」という逆転(復讐)の物語が有効であるとする。であるなら、そのような物語が物語として消費されるというのは、健全なことだとは言える。
(『キル・ビル』以降のタランティーノは復讐の話しか撮っていない。)
しかしその時に何故、現実の歴史が参照され、それが後ろ盾とされなければならないのだろうか(「ジャンゴ」の、「黒人奴隷がこんなにひどいことをされていた」とう描写はそれなりに史実に忠実であるらしい)。これが無責任なフィクションであれば、実際に人が死ぬわけではない「お話」の上での人の殺し合いを無責任に楽しみ、無責任に「痛快」を感じることが出来たかもしれないけど、史実が参照されているとすれば、いくらフィクションとはいえ、それを簡単に消費するわけにはいかなくなる。実際にそういう目にあっていた人たちがいたとうこを想像しないでいることは難しいから。
●この映画はいわば、フィクションをつくることそれ自体が、史実に対する復讐であるかのような物語だと言えるかもしれない(『イングロリアス・バスターズ』もそんな感じ)。しかし、その復讐の仕方がこれで本当にいいのだろうかという疑問はある。それは逆に、転覆させるべき史実にフィクションが(「根拠」を得るために)依りかかっているとは言えないだろうか、と。復習の物語によって「スカッとする」ために史実が利用されている、ということではないか。
●この映画のラストで、ヒロインのケリー・ワシントンがとても気になる表情をする。それ以前までの彼女とはまったく別人のような顔。それは、白人たちによる支配や暴力から「解放された」という顔では決してなく、強引に読み取るとすれば「ざまあみろ、勝ったな…」とでもいうような表情だと思う。つまりここでは、支配‐被支配の構造が壊れたわけではなく、たんに勝ち‐負けが逆転したというだけだということを、この表情は示していると思う。今まで、ディカプリオが、サミュエル・L・ジャクソンがいた「勝ち」の位置を、とうとう自分が占めたのだ、と。
穿った深読みかもしれないが、この表情の変化によって、それまで散々「酷い白人」たちに苛まれてきた彼女が、この時に苛む側の「酷い白人」の位置に移動した(あるいは「酷い白人」が彼女に憑依した)のだとも言えるのではないか。だからこれは、ホラー映画でよくある、怪物(呪い)を全部始末してめでたしめでたしで終わると思った直前に、「実は怪物(呪い)はまだ生きてました」ということが示されて、そこでパッと終わりになってしまうというような、すごく「いやーな」終わり方で、痛快でもなんでもないように思う。
それはつまり、人事異動はあっても組織はまったく同じみたいに、世界そのものの構図はまったくかわっていないということで、であるならば、この映画の世界はここでは決して終わっていなくて、あなた(わたし)のいる「そこ(ここ)」にまでずっとつながっている、ということでもある。この映画を観ている「あなた(わたし)」もまた、「酷い白人」であり、あるいは「ジャンゴ」であり、つまりは他人事ではなく両者が殺し合い、果てしなく逆転し合う世界に住んでいるのだ、と。これは「歴史」の話ではなく、この映画を観て、快感を得たり、思わずガッツポーズをしてしまったりした以上(「ざまあみろ、勝ったな…」という表情に共感してしまった以上)、あなた(わたし)もまた「この殺し合いの世界」に加担しているのだ、ということになるのではないか。
●ぼくはこの作品を批判しているわけではない。むしろ、こんなに嫌な気持ちにさせられるだけの力がある、と言っている。