●家にこもって短い原稿を書いていた。900字程度の短い文章でも(いや、だからこそ)、書き出し部分を書いている時点ではこの話がどこに向かうのか全然分かっていない。そういう風にしか書けない。だからと言って、結果としては、予測不能なものが出てきてくれるというわけではないのだけど。
●ある程度先が見えるようになったところでいったん中断して、気晴らしにしばらく外をぶらぶら歩いてから、マックに入って『動きすぎてはいけない』(千葉雅也)の序章を読む。「やっぱ、みんなそういうこと考えるよねえ」というか「やっぱそれって切実だよねえ」という納得の仕方をした。こういう風に書くと「凡庸だ」と言っているみたいに聞こえるかもしれないけどそういうことではない。予想外に近い感じというか、生々しいリアル感、「同時代に書かれたもの」感を強くもった。
≪酒にもう一杯、あと一杯と溺れていき、どこで最後の一杯にするか。ドゥルーズガタリにおけるリゾームの概念と、単独でのドゥルーズによる差異の概念は、このように<生成変化を次に展開するための、接続の節約>という課題によって、橋渡しされているのである。≫
●一方に無限に近い接続可能性があるとしても、実際にはそれは限りがあり、他方に無責任な切断の肯定を置く必要があるということ、あるいは、そもそも勝手にいろいろ繋がってしまうのだし、しかしそう言っている傍から勝手にいろいろ切断されてしまっているという感じ。そして、一人一人がそれぞれ個別に、そのような偶発的な(その都度の接続と切断によって生じる)有限性として生きるしかないという感じ。そのような生に対してどのような配慮があり得るのか、どの程度の配慮が適切なのかという感じ。そういう「感じ」をぼくはこの本の序章から受けとった。
多くの人が、前者(「無限の接続可能性の肯定」という幻想)を批判するために、近代的な表象・代表的な思考へ、あるいは実証主義、合理主義へ、あるいは自律した責任のある個へ、あるいは精神分析的な「神経症の主体」へと後退してしまうのだけど(例えば、成熟によって何かを断念するという有限性の受け入れは「生成変化のための接続の節約」としての有限性とはまったく違うだろう)、それは(少なくともそれだけでは)どう考えてももう無理で、それとは違う形を、その先を考えなくては駄目でしょうという気持ちが強くあるのだけど、ポストモダンへの批判が結局はモダンへの回帰になってしまう(あるいは、モダンへの回帰とポストモダンのごり押しとの対立でしかない)という退屈な光景を、かれこれ二十年くらい見つづけてきたような気がするのだけど、ようやくそれとは違う考えの形がぼくにもみえてくるようになってきたというのが、ぼくが「現在」として感じているものの感触なのだけど、それと同じような感触を、この序章から感じて、勝手に近いのかなあという感じをもった。
清水高志さんの新しい本も出るのか!
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