東京都美術館での事件について。
http://www.asahi.com/articles/ASG2L5HHSG2LUTIL033.html
上にリンクした朝日新聞の記事によると、作品に貼られていた紙には≪憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう≫と書かれていたという。特に何かを強く攻撃してもいないし、特に極端な反社会的なことを語っているわけでもなく、表現も「紙に字を書く」というすごく地味なもので、例えば安倍首相の肖像画に杭を打つみたいな、暴力的な表現がされているわけでもないようだ。いやもう、この程度の言葉が弾圧(検閲)されるとか、「北朝鮮か!」と言いたくなる。なんでそんなことになってしまうのか。
(作品自体を観てはいないが、記事を読む限りでは、ここで問題とされたのはあくまで「言葉」であるようだ。)
だがそれは逆に言えば、こんな言葉(表現)では誰も動かせないということでもあるけど。安倍政権にシンパシ―を感じる人なら「なんだこのバカは」と思うかもしれないし、危機意識を持つ人なら「そうだそうだ」と思うかもしれないが、ほとんどの人は気にもとめずにスルーするのではないか。この言葉がなにかしらの「議論」を惹起したとしても、その程度の議論はこのような言葉が展示されなくても既に至る所でなされているだろう。せいぜい「このバカ」から「そうだ」くらいの振れ幅で、一時的に気分が振動して、しかし展示を観終る頃には忘れているだろう。異様に粘着質の「クレイマー」を除けば。
(ここでクレイマーは、お客かもしれず、組織の上部であるかもしれないが。)
もし仮に、撤去を求めたという副館長自身が極端な保守派や熱心な安倍シンパだったとしても、この「言葉」を展示したからといって全く痛くも痒くもないと思うだろう。だからこれは政治的な主張の弾圧という問題ではなく、撤去を求めざるを得なかったのは本当に「クレームが心配」だからということなのだろう。もしかすると、過去にこの種の作品に対するクレーム対応に苦労した経験があって、あれはもうこりごりだと身に沁みていたのかもしれない。上野公園内という立地にあり団体展の舞台である都美館の独自な客層のこともあるかもしれないし、いかにもクレーマーの「燃料」になりそうな雰囲気の作品だという直観があったのかもしれない。美術館など、ぎりぎりの小人数で運営しているのだろうから、クレーム対応が多くなると他の業務全体に著しく影響が出ることも考えられる。
とはいえ、(面倒な、執拗な、圧力的な)クレームを先取り的に心配して作品の撤去を求めたなどと「言ってしまう」ことは、圧力的クレームによる(いや、圧力が予想として先取りされているのだから、それは「空気」による、というべきか)言論弾圧に屈したと認めることになるわけで、「公共的なメディア」としてそれは(少なくともタテマエ的には)許されることではないはずだ。トラブルを避けるために前もってショバ代を払っとく、みたいなことになるから。最低限、ミエミエの嘘でも他の理由をでっちあげるくらいはすべきだったのではないか。だけど、都美館は美術館というより実質的にはレンタル・スペースだから、何かを表現し、時に議論を提起しさえする場(メディア)という意識はあまりなく、スペースを運営するという感覚しかない(場所を貸しているという立場からトラブルを避けようとした)のかもしれない。
圧力的なクレームを「先取りする」ことで空気がつくられるとしたら、極端な行動をとるごく少数の人たちによって空気が決定され、検閲がその結果として生じてしまい、それがまた「空気」を強化してしまうということで、そういう風にして「空気」をつくって広げることこそがまさに政治で、だとしたら政治こそが「対話」を困難にするものではないかとぼくは思うのだけど(それは両刃の剣で、必要である場合――例えばマイノリティの権利主張など――もあることは理解するけど)、それはともかく、そのような空気に屈しないために必要なのは、まずは具体的な「クレームに対応する技術」なのではないかと思う(それは、クレームへの反論のための論理-理念をはっきりさせることから、接客マニュアル的な技術――理屈ではなくとにかく感情という人も多い――あるいは「スルー力」まで含めたものとして)。美術館とかが、この辺りをしっかり考えて事前に準備しておくと、ずいぶんと「空気」が違ってくるのではないかと思う(想定し得るクレームに対する回答集とか、つくってあるのだろうか)。普段から、様々なクレームに対応しているような業種の企業などから、そのノウハウを学ぶとかいうことも有効なのではないかと思うのだが。
(とはいえ、「真摯に受け止めるべき(議論に値する)問題提起」と「圧力をかけることそれ自体を目的としたクレーム」との境界は常に不確定であり、前者が後者として処理されてしまうという危険も勿論あるのだけど、それはあくまで個々の場面で判断するしかないと思う。)
(ということは結局「コミュ力」ということになるのか。最近ぼくは、この世界は「コミュ力」と「数学」によって支配されているのではないかという思いが強くあり、どちらも苦手なぼくとしては暗澹たる気持ちになってくるのだが……)
●中垣克久の作品は、小室明子副館長という観客から「撤去要求」というリアクションを引き出すことに成功し、このような社会性をもつ「事件」を喚起したという意味で、政治的に成功した作品とは言えるかもしれない。ここで作品は、作家のみで完結するものではなく、作家(中垣)-観客(小室)-マスメディア-公衆によるコラボレーションによってはじめて成立するものであり、リレーショナル・アートであると言えるかもしれない。
(「こんな言葉では誰も動かせない」と書いたけど、少なくとも小室副館長は動かせたのだ。)