●勉強するということは、自分の意見や気持ちをいったん置いておいて、(自分の外にある)ある考え方のシステムを受け入れようとするということだと思う。それを一度受け入れてみた上ではじめて、そのシステムを採用することが本当に妥当なのかを検討することができる。とはいえ、向き不向きがあるから、受け入れようと思ったけど上手くいかなかった、ということもあるし、それこそが「わたしの選択」だ、ということも言える。
システムAやBを受け入れようとしたのだけど、あまり上手くいかなかった。でも、システムCを受け入れようとしたときは、楽勝とは言えないけど、なんとかつづけることが出来た。「わたし」は、このようにして何かを選択する。だがこの時、システムCを採用する(これは、「わたし」――の少なくともいくらかの部分――をシステムCに「明け渡す」ことに等しい)ことの妥当性は、「わたし」とシステムとの親和性によってはかられたものだ。
だがそれが、状況との関係において妥当なものなのか、あるいは、真理や倫理との関係において妥当なものなのか、は、別の話になる。「わたし」にとって、わたしの一部分であるシステムCが、もはや、状況との関係においても、真理との関係においても、その妥当性が疑わしくなる、ということはある。
しかし、システムCこそが(ある程度は)「わたし」であり、そして「わたし」の資質と絡まり合ったものでもあるから、アイデンティティの面からも、能力の面からも、容易には(例えば、より妥当であるかもしれない)新たなシステムDへと乗り換えることは出来ない。これは、「わたし」というものの乗り換え難さだとも言える。
(この時「わたし」は往々にして、システムCの「立場」から、状況や真理の方を批判するというモードに入ってしまったりする。)
とはいえもう一方で、「わたし」は、自分でも気づかないうちに、いつの間にか、結構柔軟に(節操なく)システムを乗り換えてしまっていたりもする。