●『思い出のマーニー』(米林宏昌)をDVDで観た。これはよかった。傑作というようなものではなく、むしろ物語の類型そのものという感じなのだけど、類型を類型として、ここまでのクオリティでやり切ったものは他にはそんなにないんじゃないかと思った。
このお話は内向的な女の子の話だ。そして、一般的に、多くの人はけっこう「内向的な人」に冷たい。この原作は児童文学で、本をよく読むような人は、内向的であるために外ら見るとひねくれた嫌な奴にも思えてしまうような登場人物に、寛容であることが多いと思う。『秘密の花園』とか、そういうのが好きな人が多い。『くまのプーさん』だって原作はすごく内向的だ。それは、児童文学を好むような人は、自分自身が内向的であることが多く、むしろ内向的な主人公の方が感情移入しやすいからだろう。でも、内向的な人は実はそんなに多くない。
(児童文学ではないが、ウェルズの「白壁の緑の扉」なども思い出す。)
たとえば、大衆的な作品をつくる天才である宮崎駿は、主人公を「内向的であることによってひねくれてみえる女の子」にすることはない。その変わりに、「大人しいけど芯の強い女の子」へとそれを書き換える(『となりのトトロ』のサツキなど)。微妙な違いだけど、多くの人は、前者には冷たいが、後者は大好きだ。前者は「暗い」だが、後者は「けなげ」となる。『千と千尋の神隠し』の千尋だって、実はかなり内向的で暗い女の子であるはずだと思うけど、そこには最小限しか触れないで、一気に異界の物語の怒涛の流れに引き込んでしまう。でも、この物語は主人公が内向的でないと成り立たない。見える人にしか見えないとしても、トトロの存在は秘密ではなく開かれているが、マーニーは「秘密の友達」であることに意味があるのだから。「秘密の花園」は外から切り離されて、閉ざされていなければ意味がない。宮崎駿の異界の大きさに比べ、この作品の異界はとても小さくて脆弱だし貧弱だ。だからおそらく、宮崎駿には『思い出のマーニー』はつくれないだろうし、機会があってもつくらなかったと思う。
思い出のマーニー』は、どんなにがんばっても傑作にはなりようのない話だと思う。類型的であり、類型に納まっているというところに、この物語の意味があるような話だからだ。もし、類型を超え出るような力をもつ作品になったら、この物語がこの物語である意味を失う。閉ざされてあることの小ささが必要なのだから。この作品は、そこのところに、とても繊細に気が使われていると思う。
他からの侵入を許さない閉ざされた小さな領域があり、だけどその閉ざされたものがあることで、他との関係も可能になる。その領域は、小さくて脆弱で類型的である。それは貴重なものではあるが、些細なものでもある。それは、普段は忘れられているべきもので、この、貴重ではあるが「小さい」ものの存在が大きくなりすぎるとヤバいことになる。この作品は、それが些細なものでしかないことに忠実であるように思われる。