トルストイイワン・イリイチの死」と、カフカ「変身」を読み返していた。この二つの小説は、皆は生き、「このわたし」(だけ)が死んでいく---それを受け入れる---感触(逆に言えば、「このわたし」だけが消えて、それとはまったく無関係に皆は生きているという事実を、苦痛と混乱と憤怒と恐怖とを通り抜けた先で受け入れる感じ)、という点で、意外にも共通するものがある、というか、端的に、とても似ているように感じられる。
(イワン・イリイチが死の直前にようやく自らの死を受け入れたのと同様に、おそらくグレゴールもまた、グレゴールの死後の家族の幸福と希望を---時間的な順序を超えて---死の前に受け入れているように思われる。だから、一見残酷にみえる「変身」のラストは、グレゴールにとっての「このわたし」の死の肯定のためにあるように思う。)
追記。少し前に母の兄が亡くなって、その葬儀でぼくは、受付の裏側の目立たないところで、香典を誰からいくらもらって、合計がいくらになるかなどをその場でチェックして、計算し、記録する、会計という係をやっていた。おじさんがこの世から消えてしまったというのに、普段することもないネクタイを締めたりして、チェック漏れのないように、計算を間違えないように気を付けながら、坊さんがお経をあげている会場から離れた場所で、せわしなくお金の勘定をするなどということをしているのだなあと思い、その事実に(近い関係にある親戚だから「お金」を扱う役割になるのだけど)、他人の死の「他人事」性のようなものを感じてしまい、つまりは、「このわたしの死」はそれ以外の人にとってはどこまでも「他人事」なのだなという感情が沸いてきて、その時に連想されたのがこの二つの小説なのだった。
(たとえば、わたしにとってかけがえのない人の死は、わたしにとって大きな打撃だが、そのことと、その人自身にとっての「このわたしの死」とは切り離されている。二つの小説は、この「切り離されていること」を死ぬ側の者が受け入れる過程が書かれるとも言える。作家自身は---書いている時点では---死んだことなどないにもかかわらず! しかし、「受け入れる」ことができるということは、本当に「切り離されている」のか?、ということでもある。)