●軽薄な新しいもの好きでいたい。文化的なものにかんしては、どんなに目新しくみえたとしても、八割がた、既にあるものによってできている。だから多くのインテリは(教養があるので)、既にある八割の方に注目して、そんなものはちっとも新しくない、以前からあると言いたがる。とはいえ、一、二割でも、新しい要素があれば、それはそれだけでかなり大したものだ。ぼくは出来るだけ、一、二割の新しい要素の方に注目して、「これは新しい」と言って持ち上げたい。
さらに、大抵の「新しくみえるもの」は、一過性のもので、長続きはしない。だから、なにも考えなくても、新奇なものは否定しておけば、事後になれば自動的に八、九割くらいの確率でその判断は「正しい」ことになるだろう。新奇なものは、とりあえず否定しておいた方が安全なのだ。下手にとびつくと、あとになってから、「君はあの頃あれに随分入れあげていたけど、最近ではさっぱりその話を聞かなくなったねえ」などと嫌味を言われることになるだろう。
繰り返すが、新奇なものは否定しておいた方が安全だ。打率を優先するならそれが正しい。だから、新しいものを「新しい」と言って推している人は、あえてリスクを背負ってそれを推している。そういうひとにわたしはなりたい。
(しかし、新奇なものすべてにとびつくというわけではない。まだガラケーを使っているし、ラインも、ツイッタ―すらやっていない。未だブログ派であり、「はてな」であり、しかも「はてなブログ」ではなく「はてなダイアリー」だ。イノペーター理論でいえばぼくはラガードであるだろう。)
新奇なものに真っ先にとびつく人は常に損をする。潮目が変わり、新しいものが既に新しくはなく、不可逆の流れになり、しかし、レイトマジョリティはまだそれに気づいていないというタイミングで「これが新しい」とか言いだす奴が最も得をする。しかし、それでは遅すぎる。というか、そんなの全然面白くないのだ。
新しいものに賭ける意味は、「間違える可能性がある(間違えることが「できる」)」という点にある。あらゆる創造的なものは、それが間違いである可能性を含んでいる(未だ間違えであることが出来るという可能性を有している)ことによって輝いているのだと思う。新しさは、間違える可能性の大きさと共にある。
「間違えることが出来る」ことを言う(つくる)ことができる人の言うこと(つくるもの)だけが、面白いのだと思う。そういうひとにわたしはなりたい。