●「ツインピークス」のファーストシーズンを観ていると、これをはじめて観ていた、学生時代に住んでいたアパートの部屋を思い出す。91年か92年くらいのことだったと思う。カイル・マクラクランが、若いというより、幼い感じに見えてしまうことに驚く。
ここに出ている親の世代の登場人物たちが、今ではぼくより年下ということになるのだろう。ローラの両親や、ボビーの父であるガーランド少佐、ジェームズの叔父でガソリンスタンドをやっているエドなどは、今のぼくより若いだろう。グレートノーザンホテルのオーナーであるオードリーの父で、今のぼくと同年代くらいだろうか。
まさか「ツインピークス」をこういう目線で観る時が来るとは、これをはじめて観ていた頃には思いもよらなかった。そして、時代がこんなに大きく変わることになるとも、その時には考えていなかった。
(携帯電話もインターネットも普及していなかった頃の物語なんだなあと思う。)
それでも、「ツインピークス」は、それをはじめて観た時とおんなじ感じでおもしろい。この「おんなじ感じ」というのは何なのだろうか。懐かしいという感じではぜんぜんない。映し出されるものは同じでも、その背景は大きく変わったし、そこに注がれる視点も変化したのに、そこから得られる「感じ」だけは不思議なくらい変わらない。
こういうときに、時間というものが、どういうものかよくわからなくなる。
●「ツインピークス」のファーストシーズンを、今、観て感じる(昔観た時と)「変わらない」という感じと、新しいシリーズを観て感じる、(ファーストシーズンの頃と比べて)いろいろ変わり果てているけど、それでも「変わらない」感じ。このふたつの「変わらなさ」はぜんぜん別のものなのだけど、ふたつあわせるとより強く「時間」というものを裏切っているように思う。
(いや、むしろ「際だたせて」いるのか。継起的な時間とは、別の意味での時間をにじみださせ、際だたせているのかも。)