2019-10-22

●最近、YouTubeに、昔の日本映画がまるっと一本アップされているのをみつけることがあるのだけど、あれは、権利関係とかちゃんとクリアしているものなのだろうか。

そういう一本として『お嬢さん』という映画があった。1961年の大映の映画で、原作が三島由紀夫、監督が弓削太郎で、若尾文子川口浩野添ひとみ田宮二郎三宅邦子などが出ている。

https://www.youtube.com/watch?v=f9liMo04a5Q

なんとなく観始めたら、けっこうよくて最後まで観てしまった。特にすばらしく面白いとまでは思わないのだけど、昔の映画は(良くも悪くも、だが)ちゃんと「映画」なのだなあと思いながら、楽しんで観てしまった。いかにも「三島由紀夫が大衆向けに書いた」ような物語もそれらしくて、(良くも悪くも、というか、古くさく感じられるという意味で)「ちゃんとしている」。このような「ちゃんとしている」感は今の映画にはなくて、過去のものなのだが、そのようなものとして気軽に観る限りには、楽しんで観ることができた。若尾文子という人の、ポップアイコンとしての突出した存在ということも感じられた。

(この気軽さは観る側の「構え」の効果でもある。たまたま見つけたものを、気まぐれでちょっとだけ観てみようと思ったら、案外面白くて、結果として最後まで観てしまった、という時にのみ可能になる「楽しさ」であろう。この「気軽さ」は、最初の時点で相手への期待をちょっとだけ「軽くみている」ことによる「気の緩み(隙間)」があるからこそ生じるともいえる。)

(作品を観る時に、まず前提として作品への「尊敬」や「敬意」というものは必須であろう。まず最初に見上げるような尊敬や敬意があり、そこからくるこちら側の構えとして「緊張」がある。そのような敷居の高さに対する緊張した構えによってしか受け取ることのできない作品の「高さ(あるいは精度)」というものがある。しかし一方で、かならずしも尊敬や敬意を欠いているわけではないとしても、あらかじめ成立している「親しさ」や「信頼」によって生まれる構えとしての「気楽さ」というものもあって、このような(尊敬や敬意と共にある)「気楽な構え」によってしか感受できないものもあると思う。)

(だが、ここでいう「気軽さ」は、親しさや信頼をベースにしたものとはやや異なっていて、尊敬や敬意が薄められていることによって---観ている途中でそのような態度がひっくり返ることによって---発生するものであるという意味で、褒められた態度とは言えないだろう。ただ、舐めているとまでは言えないが、高い期待をもっていない、あるいは、強い危険性を感じていない、いわばノーチェックに近い状態で、その時のガードの甘さをすり抜けてするっとはいってくるものの「楽しさ」というものがあると思う。)

おそらく、自分から意思して『お嬢さん』という映画を観ようとは思わないだろうから、偶然ときまぐれということがなければぼくはこの映画を観ることはなかっただろうし、この楽しさを感じることもなかっただろう。

(とはいえ、この映画は、ぼくに何かしらの大きなショックを与えたというほどに面白かったわけではない。しかしそうではないからこそ「楽しかった」、と。)