2020-08-25

●引用、メモ。『やってくる』(郡司ペギオ幸夫)より。以下の部分は、第一章、第二章に書かれていることの要約(というか、重点)と言えるところで、とても重要なことが書かれていると思う。

《私は、パジャマのような服を着せられた「ねこ」を見たことがあります。それは年老いて毛艶も衰えたねこで、一見すると猫か猫でないか判然としないほどでした。ここでは、現実に存在する目の前のネコをひらがなで「ねこ」と、抽象的な概念としてのネコを漢字で「猫」と表しています。》

《まず、縞模様なので「猫である」と判断されました。まれに鳴く声もやはりニャアと聞こえ、「猫である」と判定できる。しかしそのパジャマの着方は堂に入ったもので、まるで人間が着ぐるみを着ているようにも見える。この限りでは「猫でない」と判定できる。また力のない体毛はいたるところで渦を巻き、まるで乾燥した苔のようです。そうするとやはり「猫でない」と判定できるのです。》

《どんなものであっても、「Aである」と判断しようとすると、「Aである」と「Aでない」の両方が成立してしまう。普通に考えたら決定不能に陥ります。にもかかわらず、《「Aでない」というよりはむしろ「Aである」》という程度に、「Aである」と決定されるのです。》

《私たちが判断を迫られるとき、注目される文脈が用意されている。たとえばここでは、目の前にいる「ねこ」が猫が犬かの判断を迫られているわけです。この注目されている文脈、つまり「猫か犬」文脈においては、ねこは猫であると判断される。縞模様やニャアという鳴き声は、犬ではないという意味において、猫でない可能性がないのです。「猫か犬」文脈において、「猫でない」は犬を意味してしまいますから、犬でない以上、猫でない可能性は排除される。》

《しかし、苔かもしれない、人かもしれない、という意味での「猫でない」可能性も本来はあるはずです。それらがどこへ行くのかというと、「猫か犬」文脈の外部に位置付けられ、無視されるのです。文脈外部に追いやられ無視されるというのは、完全に排除され、消え去ってしまったわけではありません。存在するのにただ無視されるだけなのです。これが、「~というよりむしろ」の意味ということになります。》

《この文脈だけが世界に存在し、それ以外は何もないのなら、この文脈に対する疑いや懸念は一切伴わないでしょう。文脈の外部は存在しないことになります。しかし「猫か犬」文脈が孤立していないことに対する無意識の受動的知覚が、「何か足りない」という無意識の能動的叫びを喚起し、外部に追いやられたはずの「猫でない」可能性をぼんやりと伴わせてしまうのです。》

《この潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫である」という一つの判断にリアリティを与えるものになる。それは「猫である」と確定しながら、その判断に自信を持てない不安感であり、「猫である」と判断しながら、同時にあまりにも猫らしくない部分に感じられるおかしみであるのです。潜在する「Aでない」の有する力こそが、「Aでないというよりむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げているのです。》

《哲学者ライプニッツは、「物事にはすべてそれが存在しない、というよりはむしろ、存在する理由がある」という根拠の与え方として、充足理由律を提唱しました。》

《何か論理的な展開、哲学的思惟を進めるときの前提Xは、「XでないというよりはむしろXである」という程度に保証される。だとするとそれは、いつ転倒するかわからない。》

《私が言いたいのは、決定不可能性をギリギリ回避しながらも担保される「AでないよりむしろAである」の持つ危うさ、ではありません。》

《私が強調したいのは、「AではないというよりはむしろAである」は、「AでありながらもAでないを潜ませている」ことであり、その潜んでいるものこそが、リアリティと考えることができるという点です。》