2023/06/14

⚫︎下高井戸シネマで『背』『DUBHOUSE:物質試行52』(共に七里圭)を観た。『背』について。

この映画は、まず(というか、石巻のホテルのガラス窓に続いて)、ガラスに描かれている何かをガラスクリーナーで拭き取る仕草から始まる。これは二つのことを意味するだろう。(1)このパフォーマンスは複数回目であり、以前にも行われたことがある(パフォーマンスは反復される)。(2)このパフォーマンスの目的は「ガラス面」を生産(制作)することではない(ガラス面はパフォーマンス終了後に拭き取れれる)。ガラス面はパフォーマンスに必要な小道具の一つであり、媒介物であって中心ではない。

このパフォーマンスは、かつて石巻のホテルの部屋にある「金華山の見える窓」の、その「窓ガラス」の表面に、金華山を背景にして詩を書いたという経験と繋がりがあるようだ(その再現?)。とはいえ、このパフォーマンスはその経験とはかなり異質であるはずだ。もっとも大きく異なる点は、(この映画の前半はガラス面のみを映すのでわかりにくいが)ガラス面は空間の中心にあるようで、詩人=パフォーマーはいとも簡単に逆側に回ることができる。その時点でこのガラス面はもはや「(向こう側が見える)窓」ではなく(裏からも描くことのできる)厚みのある「ガラス板」に過ぎなくなる。風景は「ここ」にはない。風景があるとしたら、表と裏に挟まれたガラスの内側にあるということになるだろうか。あるいは、「ここ」にあるのは「表」と「裏」という二つのガラス面であって、その向こうの風景はここにない。二つの窓(表面)が向き合うことで「風景」が締め出される(向き合った二つの窓はもはや「鏡」になってしまうのではないか…)。

詩人は、萩原朔太郎の写真をガラスに貼り付け、土方巽の声を録音したテープを流し、自らその口ぶりを模倣したりして、死者の魂を召喚するかのような身振り話する。二つの向き合った窓には「向こう側」がないので、ここにはない「向こう側」を「霊」として呼び出す必要があるのかもしれない。

詩人は目隠しをして、まずは赤いマーカー(ポスカ?)で円のような形を描き、次にその真ん中あたりに閉じきらない「つ」のような形を描く。その後、緑のマーカーに持ち替え、円のような形を縦に貫くような描線を入れる。それから少し経ってから、裏側に回って白い塗料を表面に垂らしたりするが、いわゆる「描く」ような行為はほぼそれくらいで、目隠しをとって以降は、手や金槌でガラス面を叩いたり、何か先の尖ったもので、ガラスの表面を引っ掻くという行為を主に行うようになる(引っ掻く行為は、文字になる以前の未然の文字を刻む、未然的な「文字を刻む」行為なのかもしれない)。

もしかすると、赤と緑のマーカーで(目隠しをして)描かれた部分こそが「向こう側の風景」に相当し、それ以降の行為(叩いたり、引っ掻いたり)が、決して届かない「そこ」に向かってなされたアプローチ(未然の「文字を刻む」行為)ということなのかもしれない。映画の終盤になると、先の尖った何かで、マーカーで描かれた描線部分をかき消そうとしているかのような仕草も見られるようになる。

そして詩人は、ガラス面に向かって(想定されるその「向こう側」に向かって?)、おそらく石巻のホテルで書かれたのだと思われる詩を朗読(というか、「発声」)する。そしてその背後に、ずっと「空間現代」による演奏が聞こえ続けている。これくらいが、この映画から「観てとれる」おおよそのことだ。

この映画の前半の大部分は、ガラスの表面にピントが当てられた、ガラスの面を表と裏の二方向から撮られたカットのみで構成されている。このカットはどれも、構図の全てがガラス面で占められている。つまり「ガラス面のフレーム」はカットのフレームの外にある。だからこの「ガラス板」の大きさがどれくらいなのかはずっと分からないままだ。そして映画の中盤を過ぎたあたりで、おそらく初めて、ガラス板からやや距離を取った横位置からのカットが挿入される。その時ぼくは「うわ、ガラス小っさ」と思った(この映画での一番の衝撃)。構図の全てを覆っている無限定なガラス面を観続けていたので、無意識のうちに、人の身長と同じくらいのサイズを持つガラス板を想定していたのだ。

つまり、この映画の半分は、三次元的な空間のパースペクティブが成立しないように(意識的に)構成されていたと言えると思う。とはいえそれは「ガラス面(平面・表面)の上で起きていることを注視していた」ということではないようだ。正直に言って、このガラス面の上では、そんなに大したことは起こっていないし、起こそうともされていない。その証拠に、パフォーマンスが終わればガラス面はきれいに拭き取られる(だろう)。ここでガラス面は、詩人の行為を誘発し、あるいは制限したり妨害したりして抵抗する媒体としてある。この中には入れないという固い抵抗によって、その「向こう」を出現させる媒介物。ならばここで、ガラス面が見られているのではなく、ガラス面が見ているのではないか。「ガラス面の受動(受難)」を通して、ガラス面に対して能動する詩人の(像ではなく)行為が浮かび上がってくる。つまり、ガラス面の視点から詩人が見られている。

(ガラス板を叩いて響かせている時、詩人はガラス板に誘発されている感じで、ガラス板の表面を尖ったもので引っ掻いている時、詩人はガラス面に妨害され、抵抗されている感じ。抵抗されて届かないことが「文字を刻む」行為に通じている。)

横位置からの引いたカットが入ることで初めて、ガラス板そのものが(そのサイズ感まで含めて)「見られる」ことになった、のだと思う。それまではずっと、ガラス面自身が視点となって、ガラス面に行為する人の「行為」を映し出しているという点においても、ここでのガラス板の機能は「窓」からはとても遠くに離れている。

(この映画が『背』と名付けられているのは逆説的で面白い。石巻のホテルの部屋の窓には確かに「背」があると言えると思うが、パフォーマンスに使われたガラス板には「背」がない。あるいは「背」とは、常に詩人の背後に存在し、決して画面に映ることのない「空間現代」のメンバーを指すのか。)