2024/03/19

⚫︎ふと思い立って金井美恵子「孤独な場所で」(『金井美恵子全短編Ⅲ』)を読む。別の本を探している本棚から気まぐれに取り出したら読み込んでしまった。

話者である中年男性が、二十三歳年下の妻と入院中の父親の見舞いに行く場面から始まる。病院の裏手で解体中の屋敷の話題から、母親の女学生時代の噂話、父親の中学時代の奉公の話が混じり合う。

つづく場面で、若い妻が話者の息子に出迎えてもらう様子が描写される。そして、妻はその息子に、わたしはあなたの父親の妻であって、あなたにおかあさんと呼んでもらうつもりはないと言ったのだと、妻が話者に向かって語る。それが、前の場面で入院中だった父の葬式であることが匂わされる。つまり、父は程なく亡くなり、中年男は再婚で息子がいることがわかる。

というか、これらのことは一切説明されず、高いヒマラヤ杉のある建物の近くにある宴会場から結婚式後の人々が出てくるという場面の情景描写が長く続いた後、ふいに、《そうしたら、むこうから晋さんが歩いてきて、わかりやすい場所だから、わざわざ出むかえてくれなくてもよかったのに、と言ったのね、と彼女はビールとグラスをテーブルに置きながら、興奮して喋りつづけ、おかあさんと呼んでもらうつもりはないし、あたしは、いわばあなたのおとうさんの妻なんですから、と大きな眼を見開いて笑った》と書かれることで、ただの情景描写がある特定の「位置」や「意味」に着地する。ここでいきなり出てくる「晋さん」が誰なのかもまったく説明がないので、前後関係から察するしかない。

(だからここでの「情景の描写」は話者の視線によるものではなく妻からの「伝聞」であることになるのだが、それが事後的にわかる。わかるまでは「話者」の位置は確定されずに開かれたままだ。)

次に、同じくヒマラヤ杉のある場所の近くに(つまりこれは話者の住んでいる部屋の近くということだろう)、妻の乗っているのと同じ《ターコイズブルーシトロエン》が停められているのを見た話者が、《彼女は戻ってきたのだろうか》と思う場面になる。話者のこの「戻ってきたのか」という内省によって、既に二人が別れていることが知られる。

(この後、結婚している時期に話者が息子と妻との関係を疑っているような場面も出てくる。)

これら一連の場面が、東京の郊外の高級住宅地を思わせる共通したトーンを持つ情景描写の連続の中に溶かし込まれるようにして描かれる。なぜわざわざ、こんなにわかりずらくて読みずらい書き方がなされるのか。それはおそらく、これらの場面を「時空の一塊」として形作ろうとしているからだと思われる。エリー・デューリング風に言えば、これらの複数の異なる時間に属する場面たちが「同時性」という関係を形作ろうとしているということだろう。この、「一つの塊」としての同時的時空において、父は入院していると同時に亡くなっているし、夫婦は愛し合っいていると同時に破綻している。マティスの絵において、矛盾する要素たちが「赤い広がり」の中で同居するように、いくつもの時間的に離れた場所にある出来事が、郊外の高級住宅地を思わせる情景描写の持つ「調子の連続性」の中で同時的に関係している、のだと思う。