昨日、ジョイスの小説を記憶だけでかなりいい加減に要約してしまったので、本屋へ行って確かめてみる。ぼくが以前読んだのとは違う訳者のしかなかった。「 ダブリンの市民 」(高松雄一・訳)。パラパラと読み返してみて、自分の記憶がいかにいい加減なものかを思い知らされて、顔から火が出る。あえて、昨日の要約はそのまま残しておきますので、ジョイスにくわしい方は見て、馬鹿にして笑って下さい。ジョイスを知らない方は、ぼくの要約を信用しないように。泣ける部分をちょっと引用します。
『彼女はぐっすりと眠っていた。
ゲイブリエルは片肘をついて、なんの怒りもなく、彼女のもつれた髪となかば開いた口をしばらく見つめ、その深い呼吸に耳をかたむけた。なるほど、彼女の人生にもああいうロマンスがあったのか。ひとりの男が彼女のために死んだのか。彼女の人生のなかで、夫の自分がいかにつまらぬ役割を演じていたかを考えても、もう、ほとんど苦痛は感じなかった。彼は眠っている妻を見つめた。まるで、二人が夫と妻として暮らしたことは一度もなかったように。物珍しげな眼ざしが、長いこと、彼女の顔と髪にそそがれた。そして、ういういしく娘らしい美しさにあふれていたその頃の彼女の姿を思いやると、奇妙な、やさしい哀れみが心に湧きあがった。妻の顔がもう美しくないなどと、自分じしんにも言いたくないけれど、もうマイケル・フュアリーが死を賭けたあの顔ではない、ということは知っている。』
『惜しみない涙がゲイブリエルの目にあふれた。彼じしんは、これまでに、どのような女にもそういう感じをもったことはない。だが、そういう感情こそ、愛にちがいないことはわかる。彼の目にはさらに涙がもりあがった。彼は片隅の暗がりのなかで、若者が雨のしたたる木のしたに立っているのを見たような気がした。ほかのものの姿も近くにあった。彼の魂は死者の大群が住まうあの領域に近づいていた。彼はその気まぐれな、ゆれ動く存在を意識していたが、はっきりととらえることはできなかった。自分じしんの実体が、灰いろの、得体の知れぬ世界のなかに消えてゆく。これらの死者たちがかつて築きあげ、みずからそこに生きていた堅固な世界そのものが、溶解し、縮小してゆく。』
制作について。このところ停滞ぎみ。そんなに悪くない。方向としては良いと思うのだけど、いまひとつ何かが足りない。もうひとつねピタッとこない感じ。こんな程度の作品を作ってたのでは、全然駄目。もう一歩踏み込まなければ。でも、きっかけが見えず、そのまわりでウロウロ。うーん、苦しい。
大森一樹ヒポクラテスたち 」、パゾリーニ「 テオレマ 」を観る。
ヒポクラテスたち 」。20年ぶりくらいに観た。思っていたよりもずっと面白い。古尾谷雅人が、その長い手足を折り曲げるようにして、小さな自転車に乗っているところなんかが、すごく良かった。ちょっと素人っぽいルーズな感じなんかも。京都の風景ってなんか不思議な感じだ。高い建物が無いせいだろうか。
「 テオレマ 」。おそらくキリスト教的なアレゴリーや教会に対する挑発なんかが、かなり含まれているのだろうが、ぼくの知識ではそこらへんは深くは読み込めない。しかし、イメージの現れ方という意味でも、すごく興味深い。とくに顔。ゴダールなんかの、とても繊細で洗練された顔の撮り方とは違って、顔が即物的にゴロッと在る、という感じ。全体に、正面性の強い構図だったり、ショットの繋ぎもシンプルだったりと、素朴な感じの作りなんだけど、それが、鉱物的なというか、とても硬質な輝きをもたらしているように思う。
ぼくが、世界で一番美しい顔をもっていると思う女優が二人いて、一人は、60年代終わり頃のアンヌ・ヴィアゼムスキーで、もう一人が、80年代前半のミリアム・ルーセルなんだけど、「 テオレマ 」は68年制作でアンヌ・ヴィアゼムスキーが出てるから、それだけどもう、OKって感じだけど、これはそれ以上に興味深い映画。ダビングして、あと何回か観直してみたい。