鎌田哲哉によるスガ秀実(「早稲田文学」7月号)

早稲田文学」の7月号を眺めていた。鎌田哲哉氏の「進行中の批評」は相変わらず冴えている上に飛ばしまくっている。鎌田氏は、スガ秀実氏の批評の核を、レギュラーな警察的(表象代行作用)な知が「ある歴史的条件の下」で自明性を失い、イレギュラーな探偵的な知(表象代行作用の失調)を招き寄せるのだが、結局はその「イレギュラーな知」もいつの間にか「レギュラーな知」に回帰し回収されて、それを補完するものとなってしまう、という悪循環(常に「日本」へと回帰する日本の永劫回帰)を指摘する、という貧しいまでの同一の論理の酷使とする。スガ氏は、どのような分析対象からも例外なく上記のような論理をみいだしてしまう。このような同一の論理の徹底した酷使は、我々がとらわれている「現実」の貧しさによるものであることは間違いがないが、しかし、同時に「対象に存する流動的な可能性」を強引に切り捨ててしまうという側面もある、と。例えばスガ氏の二葉亭の解析には「翻訳(外国語の侵入)」という視点がない、「警察的知/探偵的知」という対立には、「法廷=議論」(差異的な諸力が現実に衝突し葛藤する空間性)が欠けている。だからスガ氏が、上記のような「奴の悪循環(「内-外」という図式)」に回収されない(それを切断する)ものとして挙げる「外(の外)」は、必然的にロマン主義的な色彩に染め上げられていて、「痴呆」だろうが「爆笑」だろうが「もの」だろうが「享楽」だろうが、ほとんど同じものの単調な反復にすぎないものになるしかない、と。

しかしスガ氏の批評の重要性はそこにあるのではない、と鎌田氏は続ける。それは例えば「永山問題」に対する態度の「わかりにくい姿勢」にこそある、と。ここでスガ氏は、永山則夫氏の文芸家協会入会に対する協会の反応への意見としては、そのことで協会を脱会した中上氏や柄谷氏とほぼ同じ立場でありながら、協会へ留まることを選択する。それは主に会員としての権利を行使して「理事会議事報告」の閲覧を請求するためであった。つまりここでスガ氏は、「永山氏の入会に反対する者」に対して批判をするという闘争と同時に、反対も賛成も含めた「永山問題」という問題そのものが一体どのようなものとしてあらわれたのか、を丁寧に分析する(問題に対する「諸個人のみかけ上自由な言動が、微妙なぶれのなかで雑誌記者や編集者の意図に翻弄され彼らを模倣してゆく事態」を丹念に拾い上げる)という闘争も行うという「二重の闘争」を行ってるのだ、と。これは「くず糸の山に分け入って、そのからまりと結び目を解きほぐし、卑小で隠微だが侮れない網目をその都度可視化する過程の連続」としてしかありえないし、「その複雑さをゆっくりと思考して」ゆかなくては可能にならない「つくづくいやになる仕事」なのだ。このような場でのスガ氏には、「痴呆」だ「享楽」だと言って「外(の外)」を言い立てるような調子の良さはみられない。鎌田氏は、この「二重の闘争」こそが「奴の悪循環」を断ち切るもので、それはつまり徹底して散文的な時間性のなかに留まることであり、なにより「外(の外)」などというロマン主義的な概念を破砕することなのではないか、とまで述べる。(この部分の記述は、雑誌の冒頭の大澤真幸氏のインタビューで、彼が「複数の自己」を束ねるために「無」の機能を言い立てたり、「共感不能の他者」を「弱い他者」(による癒し!!)に代表させてしまったりするような「社会学的」な言説に対する、シャープで痛烈な批判にもなっていると思う。)

鎌田氏が、いわゆる68年的なものを徹底して嫌っているという事実は、パラパラと立ち読みした「現代詩手帖」での発言などからも充分に理解できる。確かに、幼稚で身勝手で他者のことなど理解しようとしない、散文的な時間性への緊張を全く欠いている「めでたい詩人やバカ学生」による乱痴気騒ぎが、「外」を開くことなどあり得るはずがない、と言うもの理解できる。「彼らを冷凍して粉々に砕いたら、世界はどんなに浄化されるだろう。」という鎌田氏らしくない言葉も、笑いつつ共感してしまう。しかし、ここまで徹底して「享楽」を否定してしまって、実際に「散文的な時間性」に耐えつづけることが可能なのだろうか。と言うか、徹底した「散文的な時間性」に耐えつづけるためにこそ、是非とも「享楽」という要素が必要なのではないだろうか、とぼくには思えるのた。それは決して「外(の外)」へと至る華々しい祝祭のような「享楽」ではなくて、どこへも至らない、白々として砂を噛むような「享楽」でしかない訳なのだが。(それは多分「倒錯」というのともちょっと違うのだ。)例えば、鎌田氏は全く評価していないのかもしれないのだが、丹生谷貴志氏の言う「女たちの地獄」のような時空で、日々、刻々と沸き上がっては消えてゆくような「享楽」、鎌田氏が批判的に揶揄している金井美恵子氏の『恋愛太平記』という恐るべき小説(これこそが「差異的な諸力が現実に衝突し葛藤する空間性」に関する小説ではないのか)に立ち現れているような「享楽」、そのような「享楽」なしに、「差異的な諸力が現実に衝突し葛藤する」ような「散文的な時間性」があり得るとは、ちょっとぼくには考えられないのだが。勿論、鎌田氏がそのようなものに全く無感覚だとは思えない。ほんの一言だけだけど、スガ氏の「柔らかな心」に触れてていたりするのだから。