02/02/23

●人は「顔」を見ない。ただ認識し判断するだけだ。この顔は母親であるのかライバルであるのか。私に利益をもたらすのか危害を加えようとしているのか。笑っているのか怒っているのか。美しいのか醜いのか。好みなのか嫌いなのか。異性であるのか同性なのか。人はそこに「顔」があると認識したとたんに、瞬時にそれらの判断を下す。「顔」はそこに「主体」があるという「しるし」であり、その主体の状態をあらわす「しるし」であり、その主体と自分とのあり得べき関係を探るための「しるし」であるだろう。だからそれは実際に顔である必要はない。丸のなか点を2つ打ち、横棒を一本引けば、もうそこには「顔」がある。丸のなかにある点や棒の配置や形態をちょっとずらしてやるだけで、そこに「表情」が生まれる。主体を見い出すためには、2つの点と横棒だけで充分だし、個人という固有性を見い出すのでさえ、プリクラ程度の解像度の低いのっぺりした像があれば充分なのだ。むしろ解像度の低い映像の方が、素早く低いコストの情報処理で済ますことが出来て好都合なくらいだ。主体を認め個を識別するのには膨大な情報など必要としない。2つの点と横棒の配置と、ちょっとした特徴があればいいのだ。似顔絵は、丁寧に描き込まれたものよりも、なるべく単純で数少ない線だけで構成されているものの方が高度だと言えるだろう。
●生きるためには認識し判断すればそれで充分なのであって、それ以上「見る」ことなど必要ではない。むしろ過剰に「見る」ことは意味を解体してしまい、生きることを困難にするだろう。必要以上に「顔」を見つめることによって、「顔」はその主体性や固有性を失ってしまう。それは「顔」ではなくて点と棒になってしまうかもしれないし、額の拡がり、顎のカーブ、口元の複雑な凹凸、場所によってきめが滑らかだったり荒かったりする肌の触感、等へとバラけてしまうかもしれないのだ。人は「愛する」ものをじっくりと時間をかけて眺めるかもしれないが、じっくりと見ることによって愛する対象を見失ってしまいもするだろう。額の拡がりや口元の複雑な凹凸を愛するということと、それらを所有している(それらによって構成されいる)主体を愛するということは、そう簡単には繋がってはくれないだろう。(フェティシスムとして固定化された欲望はまた別の話だが。)あまりにも複雑な動き方をするために、その動きから規則性を見い出すことの難しい機械に対してとることのできる最も安易な態度は、そこに「人格」のようなものを見て取ることだろう。この車は今日は機嫌が良い、とか、うちのコンピューターは最近御機嫌斜めだ、とか。しかし、その機械の作動原理を完璧に把握し、機嫌の良し悪しの原因を明確にしようとする態度をとる時に、それでもそこに「人格」を見い出すことができるだろうか。むしろ、安易な人格化=キャラクター化を拒むような、別種の「愛情」が必要なのではないだろうか。
●絵画とはあくまで「見る」ものであって、認識し判断するものではない。それはただ「見る」ことによって、見続けている間にだけ「意味」が立ち上がってくるようなものであって、「認識し判断する」ことで済ませてしまう(そのイメージを所有する)ことの出来ないものであるはずなのだ。例えばあの有名なダビンチの『モナリザ』のあの表情は、あまりに複雑なためにその絵を見ていない時に、頭で明確にイメージすることは困難であるだろう。あの表情は、ただ絵を「見ている」時にだけ出現するような像なのだ。対して、例えば奈良美智の描く「やぶにらみの子供」の絵(顔)は、即座にイメージすることが出来てしまう。それを今すぐに正確に描いてみろと言われて、正確に再現できるかどうかは分らないのだが、正確か不正確かはともかく、そんな「感じ」を思い浮かべるのはたやすい。つまりそれは、奈良氏の描いているのが絵画ではなく「似顔絵」のたぐいのものであることを示している。だからこそそれはキャッチ-であり、キャラクターとして流通することが出来、人はそれをあまりにたやすく愛することが出来てしまうのだ。人は『モナリザ』のあの何とも言えない微妙な表情を簡単には愛することなどできない。それは、セザンヌの、形が歪み色が濁っているような絵を、簡単には「美しい」などと言えないことと同じだ。それは「私」に見つづけることを要求し、「顔=主体」として認識されてしまうことを拒否するような「顔=像」なのだ。見つづけることによって愛する対象であるはずの「顔=主体」は解体されてしまわざるを得ないし、それは見つづけている=愛している「私」という主体すらも解体することになるだろう。絵画とは、そのようなことが起こるための場所(見つづけることを可能にする装置)であり、そこで我々はまるで永遠回帰の場に立ち会わされるニーチェのように、愛することさえも「再び学ばねば」ならないという状況に置かれるのだ。