想像的な他者と、山田詠実

●「美しい」という言葉を発する時、そこには既に他人との関係への希求が含まれていて、それはたんに、何かを見た時の反応だけではない。例えば、「美しい」という感嘆は、暗黙の前提として、「それを美しいと言ってもかまわない(その「美しい」の用法は間違っていない)」と保証してくれるような、ある社会的な合意のようなもの(そしてそれを支える「ある特定の集団」の存在)が無意識のうちにふまえられている、ということなのだが、しかし、それだけでもない。そのような社会的な合意から外れたような「美しい」が存在するし、むしろそのようなものこそが「美しい」のだが、その、何ものにも保証されずに私の前に出現したある事柄(私が受け取ったある「感覚」)に動揺し、それを「美しい」と思わずにはいられない時、私は暗黙のうちに、それを「誰か(想像的な他者)」と共有したいと感じている。(誰かと共有したいという欲望が「美しい」をたちあげる。)例えば樫村晴香は、自身が圧倒的な光景を目にした時のことを、次のように分析している。
《つまりこの光景を見ながら、私は、確かにラカンのいうように、自分の目だけでそれを見ず、想像的な他者の審級が駆動している。クラインは、神経症の患者が自然の美しさを賞賛しだす時には、その情景を想像上の誰かに送り、共有したがっている、しかもそれは、その誰か他者、例えば分析家への敵意への発動を隠蔽しようとする動きで、警戒しなければならないと書いています。私の場合、その光景に没頭しながら、実は見える全てを言葉で記述し続け、想像上の他者に送っているらしいことに、後で気がつきました。日が沈み、周囲が暗くなった後で、日が沈みだしてからの刻々たる情景変化を、全て言葉で再現することができるからです。》
そして、このように、自分が「見ているもの」をただ自らの感覚によって受容するだけでなく、(意識しないままに)想像的な他者へと送付してしまうという(共有したいと欲望するという)事実が、「表象」という出来事を支えていることを、セザンヌを例にして語ってもいる。
セザンヌの場合なら、彼が描いたりんごを見て、それをりんご自体だと感じる人はいないでしょう。でもその人は、セザンヌが見ていたのと同じ様に、自分がりんごを見ている、と錯覚する。しかしその人は、セザンヌがりんごを見、それから後に、表象として送り出した絵を見ているだけで、セザンヌと同じ様にりんごを見ているのではありません。この錯覚は、セザンヌ自身が、非情に特殊なものではあれ、想像的な他者の時間へ、彼の作品を送り出し、彼の視線を誰かと共有し、誰かに共有させ、抽象的な誰かと一緒に自分が世界を見ていると感じたから可能なのです。》
ここでは、社会的な合意や、それを支える具体的な集団によってではなく、もっと抽象的な次元にある「想像的な他者」という審級によって「美しい」が媒介され、表象(作品)が成り立つということが書かれていると思う。(この後、話は、そのような想像的な他者を必要とせず、ゆえに表象が成立しないところで作品をつくった特異な存在としてのデュシャンが語られるのだが、ここではそれには触れない。詳しいことは保坂和志『言葉の外へ』に収録されている、樫村・保坂対談を参照して下さい。)このような「想像的な他者」は、具体的には決して「私」の傍らにやってくることはないし、永遠に空白な場所としてありつづけるしかないのだが、そこで永遠にやってこない(故に常に私の傍らにいる、とも言える)想像的な他者を待機する宙づりの時間が成立し、そこでこそ(そこで「踏ん張る」ことによってこそ)、現実的な事柄(現実的、現世的な利害)に落とし込まれない、抽象的な次元、思考、そして普遍性への指向が、つまり「美しい」が(神という存在なしで)可能になる、ということが近代芸術を(と言うか近代的人間を)支えていると言えると思う。「抽象的な誰かと一緒に自分が世界を見ていると感じ」る(ことを欲望する)ということは別に、特別な芸術家や哲学者だけに作動している装置ではなくて、ごく普通に誰にでも当てはまることで、例えば最も分かりやすい例が恋愛で、恋愛の対象というのは、具体的な誰かであると同時に、常に幾分かは「想像期な他者」(抽象的な存在)であり、つまりそれは「私が見ているもの、私が感じていること」を常にその相手に対して(無意識のうちに)送りつけるために必要な存在で、つまり世界のなかの(私が感じる)「美しい」を支えてくれる存在であろう。
●で、ここまでが前置きで、なんでこのようなことを書いたかと言うと、「新潮」(8月)に載っていた山田詠美佐野洋子対談での、山田詠美の次のような発言に衝撃を受けたからなのだった。
《一人旅で何か魅惑的なことがあると、これを誰かに伝えたいと思うんですよね。でも誰もいない。そうすると現地調達になっちゃったり(笑)》
「男は必需品」と言う山田氏においては、「想像的な他者」と「具体的な誰が」が、何の保留もなくダイレクトに結びつき、重なっている。「想像的な他者」はそのまま「具体的な誰か」であり、だからそこには「空項」はなく「宙づりの、待機の時間」は発生せず、そこに誰もいなければ強引に「現地調達」されるのだ。この徹底した即物性(?)は凄いと思う。あるいは次のようにも言う。《何かするのでも一人より二人が好き。私、一人で生活することが好きなんですけど、後で誰か来る人がいるっていうのが前提の好きなんです。ある意味だらしがないというか、毅然としてないんですよね。》つまり「待機の時間」が(ほとんど)発生しないのだ。想像的な他者が、何らかの中間的な(ロマンチックな)操作なしに身も蓋もなくいきなり具体的な誰かとして現れる。「ある人」から「次の人」へと移ってゆく「間」はどうするのかという問いには、《だから、その間は安い恋に活躍してもらうんですよ》と応える。ぼくは山田詠美の小説は初期の何作かしか読んだことがないのだけど、こういう人の書く小説は、きっととても面白いのではないかと期待してしまうのだった。と言うか、こういう人にとって「書く」というのは一体どういうことになるのだろうか。
《昔、バリ島に一ヶ月くらい一人で滞在したことがあったんです。電気もないしお湯も出ないところで、活字中毒なのにその時は何も読む物を持っていかなくて。そうしたらあまりにも孤独で、つい自分で小説を書いちゃった。それが『カンヴァスの柩』です。旅先で誰かと感動を分かち合いたいと思う気持ち、それって小説でも解消出来るんだと思いました。物理的に男の人がいなくて、読む物がなくて、だったら自分で字を書いて読む物を作ってしまおうと、ランプの灯の下で、メモ用のボールペンで書いて。》
これは割合と分かりやすい話で、つまり無理矢理につくられた「待機の(空白の)時間」なわけだけど、このような特異な状況を設定しなくても、山田氏は随分と長い間、多産な小説家でありつづけているわけで、その長い間「書く」ことを支えている何かが、こういう分かりやすい話とは別にあるのだろうと思う。
(今日書こうと思ったのは、山田詠美の《一人旅で何か魅惑的なことがあると、これを誰かに伝えたいと思うんですよね。でも誰もいない。そうすると現地調達になっちゃったり(笑)》という発言から受けた「感触」のようなものだけなのだが、それを書こうとするここんなに回りくどい話になってしまって、しかも、あまり上手く書けた感じがしないのだった。)