●今時の話題の本(『限界の思考』や『波状言論S改』とか)をパラパラと眺めていて思ったのだが、(数日前の引用した樫村晴香の言い方に従って)「法」や「倫理」が、「この場の感情、今、ここの自分」(宮台氏的に言えば「強度」)に帰属し得ない、何かもっと大きなもの(宮台氏風に言えば「超越性」)と「自分」を結びつける装置として不可避であるとするなら、例えば宮台真司による「あえてする天皇主義」(天皇は、他の何かででも代替できる交換可能なものでしかないが、現状をみて利用可能なもののなかでは最も妥当な「超越」性への担保となる)という戦略も分からなくはない。(ルーマンは、刺激がすぐに反応へと短絡するのではなく、それを保留し、そこに多様な選択可能性をプールすることを可能にする装置が「意味」だ、と言っている(らしい)のだが、ここで言う超越性とは、そのような「意味」のようなもの、意味を機能させるものでもある。)しかし、「法」や「倫理」は、超越性へのたんなる媒介ではなく、《社会や主体が自己の死を内化・隠喩する仕方と密接に結びつ》いているもの、つまり、身体に(入れ墨のように、宿命のように)既に書き込まれてしまっているからこそ効力があるもので、そんなに簡単に代替可能(操作可能)なものでは駄目なのではないか。宮台氏はある意味で素朴な近代主義者(を装う人)でもあって、オブセッション=依存に陥らない自律=内在(内発)こそが「自由」だと述べるのだが(ギリシャ哲学まで持ち出して語られる内発や自律がそんなに素朴なものであるはずはなく、おそらくそれはラカンの「自分の欲望というリアルに従え」みたいなものなのだと思うけど)、実はオブセッシブであること(書き換えが困難であるものとしての、法や倫理や私)こそが「超越性」や「意味(刺激をプールすることを可能にしているもの)」を支えているのではないだろうか。その点、東浩紀が、強度(と言うよりむしろ「意味」と言うべきだと思うけど)というのは「偶然性(=運命性)」(他である可能性もあったのに、現にこうであった)によってこそ生じるのではないか、とか、意味のない反復なのにも拘らずずっと強度が落ちないものとしてフェティシズムというものがあるではないか(フェティシズムパブロフの犬的な反射ではないのだから、「意味=隠喩的な経路」はあると思うけど)、などとと言っていることはさすがに鋭いと思う。それに対し宮台氏は、ロシアンルーレットだって慣れるし、飽きる、というようなことを言うのだが、これは東氏の言う「偶然」の意味が理解されていないようにみえる。と言うか、ここで宮台氏は、自分はロシアンルーレットのような刺激的なものにしかクラクラしないんだ、と言っているだけのように思う。