「新潮」の2月号には読むところが沢山ある

●「新潮」の2月号には読むところが沢山ある。まず、いつもの通りに保坂和志の連載を読んでから、青木淳悟(「いい子は家で」)、中原昌也(「点滅......」)、小島信夫(「残光」)、福永信(「寸劇・明日へのシナリオ」)(読んだ順番)、の小説をつづけて読む。
小島信夫の「残光」は、一回読んだだけでおいそれと良いとか悪いとか言えないような小説なのだけど、とにかく、これだけとっ散らかっているようにみえ、行き当たりばったりに書かれたような文章なのに、400枚という分量(つまりこれは物理的な量として『プレーンソング』よりも長いわけだ)をほとんどダレることなく読めてしまうことだけでも驚きだと思う。(比べては申し訳ないけど)中原昌也の小説が、長くなると途端にかったるくなることを考えれば、それがいかに驚くべきことが分かる。文章を「読む」という行為はかなりかったるいことだし、集中力が必要だ。小説に、面白い物語や謎が仕掛けられるのは、長い文章を常に新鮮な気持ちで読みつづけさせるためだとも考えられる。そのような仕掛けなしで、長い文章を読みつづける間、それを読む人にある「新鮮さ」を常に保たせることは容易ではないと思われる。中原昌也でさえ、100枚という長さを読ませることを持続させようとすると、中途半端な「全体」の構成のようなものが(なんとなく)生じてしまい、それが、細部の運動や具体性の切れ味を鈍くするというか、個々の文や場面の焦点をぼやけさせ、小説をぬるくさせ(説明的=言い訳的にさせ)てしまう。物語というのは、いわゆる「物語」だけのことではなく、展開の筋道のようなものだとすれば、「残光」は、読んでいるそばから、その筋道がどんなものだったかを忘れてしまう。そこに確か、こんなことやあんなことが書かれていた、ということは憶えているのだけど、それが、どのような展開のなかで書かれていたのか、あるエピソードが、どのエピソードと、とのような繋がり(関係)のなかで出て来たのか、を把握する(思い出す)ことが難しいのだ。にも関わらず(というか、「だからこそ」なのかも知れないけど)、読んでいる間じゅう、(その、今読んでいる部分については)ずっと新鮮な、あるいは「油断出来ない」という感覚で、ひとつひとつの文を読み続けることになるのだった。(展開の掴めなさは、書かれている事柄の運び方や因果関係について、作家がどこまで自覚的でどこまでが無自覚なのかよく分からない、ということにもよる。例えばこの小説の最後の部分。《と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑みを浮かべて、/「お久しぶり」/といった。眼はあけてなかった。》一体、眼をあけているのか、あけていないのか。しかし、これを「矛盾」ととると、時間のなかで動いている小島信夫の「運動性」を見失うのだと思う。)
青木淳悟の「いい子は家で」は過去の二作と比べると小説としてあきらかに上手くいっていないと感じられる。しかし、それでも相当に面白い。前半、(結局、最後まで登場することのない)「女ともだち」を強く意識させつつも、家の母親についての細かいエピソードが重ねられるところや、「女ともだち」の部屋(マンションルーム)での家とはことなる居心地(違和感)の描出や、「女ともだち」の部屋では食生活の違いによって体質がかわってしまうように感じられるという描写なんかは、凄くリアルで、かつ、このようなリアルさを「小説」から感じたことはあまりない、と思わせるようなものだ。青木淳悟は、一作ごとにスタイルだけでなく描かれる内容も大きく変化させる作家だけど、それのどれもがたんなる「意匠」の問題ではないリアリティが宿っているところが凄いと思う。ただ、一見普通の場面を描いているようでいて、どこか遠近感が狂っているというような抑制した筆致の緊張感が、「幻想的」な方向へと一気に振れてゆく時に崩れてしまうように思われる。(その「幻想性」が、安易に「文学的なもの」に寄りかかっているように感じられてしまう。)「女ともだち」の部屋での突然の体質の変化の場面は、その唐突さによって、ぎりぎりで「あり」かなとは思うけど、終盤での父親との場面での「幻想」性は、ちょっと安易に流れ過ぎてしまっているのではないかと感じた。あと、ひと粘り、ふた粘りすれば、凄く面白い小説になっただろうに、と思う。
福永信の小説はまったく面白くなかった。あの、変則的な活字の組み方に何の意味があるのか分からない。福永氏は、デビュー作の「読み終えて」が素晴らしく面白い(最近になって人に薦められてようやく読んだ)だけに、この小説は、間違った狭い道に入り込んでしまっているようにしか思えないのだった。
●「残光」と「いい子は家で」は、あとで何度かは読み返すと思う。