電車がやけに混んでいた

●電車がやけに混んでいた。浴衣の人が多い。本日は花火大会のため混雑が予想されるので、帰りの切符は今のうちに買っておいて下さい、というアナウンスが車内に流れた。電車が駅の手前で止まる。ただいま、ホームか混雑しているため、前の列車がつかえています、前の列車が発車するまでしばらくお待ち下さい、と再びアナウンス。花火大会の行われる駅より、ぼくの降りる駅はいくつか先だ。その駅を過ぎると車内はすこしだけ空いた。駅に降りる。いつもよりもにぎわった感じだ。ぼくの降りる駅から歩いて十分くらいのところにある公園でも、小規模な花火大会があるみたいだった。駅の階段を降りたところで、スポーツジムと漫画喫茶の広告入りのうちわが配られている。おむすびの売店が出ていたりもする。駅前のスーパーに買い物に入る。スーパーの先には、かなり広く畑がひろがるところがあり、建物がないのでそこから花火がよく見えるらしく、狭い道路に車が列になって駐車されている。どこから運ばれたのか、椅子も並べられている。その通り沿いにある小さなビル(一階が店舗で、二階、三階がアパート)に向かって子供が、屋上行く、屋上、と声をたてながら走って、ビルの脇の階段を上ってゆく。ほとんど毎日通っているのに、そのビルの屋上を見上げたのは初めてだ。○○ハイツという看板が、目に新鮮に飛び込んでくる。時刻は七時前で空はまだ明るい。テストのためなのか、パン、パン、パン、という音だけの花火があがる。その音にあわせて犬がウォン、ウォン、ウォーンと鳴く声が聞こえる。花火大会のある公園の方向を背にして、自分の部屋へと向かうゆるやかな坂を、買い物袋を下げてのぼってゆく。
●『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流)。一作目の「憂鬱」があまりに完結性が強い(完成度が高い)ために、それを改めてシリーズ化して展開するのは困難で、同じキャラクターを使い回しただけ、みたいになってしまうのも仕方がないかとも思う。例えば、一作目での、徹底して無力であることによって全能であるような話者としての「キョン」という位置は、完璧に構築された完結した作品だから可能だったわけで、二作目以降も維持するのは無理な話で、キョンは「溜息」ではごく普通の一人称の話者へと格下げになっている。一個一個のパーツはどれも紋切り型なのに、先の展開がまっくた読めない展開をもつ「憂鬱」に対して、「溜息」の前半部分は、たんなるお気楽なキャラクターによる学園ものにしか思えず、読んでいてかなり退屈だった。しかし、一見たんなるキャラクター消費のためのお話にみえたものが、後半になると一転して理屈っぽくなって、キャラクター消費やフィクションの枠組み(フィクションと現実の関係)に関する自己言及的な話になってゆくところに、これから先のシリーズの展開への興味を感じさせはする。しかしこの程度の自己言及性が特に面白いというわけでもない。でも、古泉の理屈っぽい話に対して、みくるや有希が異なる方向から異論を差し挟み、それらが噛み合わず、均されないままでも平気で話が進行し、その傍らでまったく無自覚なハルヒが暴走するというバラバラ感デコボコ感が、たんなるキャラクターものとはちょっと違うという感触を感じさせはする。