『「赤」の擁護-フィクション論序説-』(蓮實重彦)

●「新潮」に載っていた『「赤」の擁護-フィクション論序説-』(蓮實重彦)を読んだ。蓮實氏がラカンにネチネチと嫌みを言っているのはさすがに面白いけど、でも、これが「フィクションの擁護」として機能しているのだろうか、という疑問はある。(ぼくはこの「擁護」というような言葉遣いに微妙に違和感をおぼえるのだけど。)このテキスト全体が、ラカンが不用意にも書いてしまった、「情熱の赤」と「その反対色としての黒」という部分をめざとく見つけ、ここから攻め込んでやろう、とする戦略から組み立てられているもののように思える。そしてここぞとばかり、こんなこと書いちゃう人が小説なんか読めるんでしょうか、とネチネチ絡んでいく。「赤」を性急に「情熱」などという一般的な記号へと翻訳してしまうことへの不審は、もっとわかりやすく言えば(つまり蓮實氏に逆らって一般的な記号に翻訳するのなら)、「作品(表層)」を「抑圧物の回帰(回帰されたものを加工することで隠蔽したもの)」として還元的に扱ってしまうことへの不審だと言えるだろう。このテキスト自体、いまさらラカンを批判する目的で書かれたわけではなく、ラカン派だけでなく、最近流行の社会学的な言説なども含めた(理論を示すためにフィクションを恣意的に使う)「理論家」たちへの(批判というよりも)「嫌み」として書かれているようにみえる。あくまでも、粗雑な読みへの「嫌み」として、ラカンとボーとを丁寧に読んでゆく前半はともかく、ラカンによる不用意な「情熱の赤と...」の部分を引用した後、その言葉をひっくりかえすように、ボーにおいて「赤」と「黒」とがテキスト内部で演じる役割の様々なバリエーションを次々と挙げてゆく終盤が、妙に単調で平板に感じられてしまうのは何故なのだろうか。(本当はこの部分こそがフィクションの「擁護」として機能するはずなのだが。)蓮實氏がポーのいくつもの小説の細部を丁寧に拾いつつ横断し、赤と黒とが決して単純に対立するものではなく、両者がほとんど距離なく接し合うことで、尋常ならざるものへの通路を開くものとして機能しているという分析が示される時、その分析から浮かび上がる「赤」は、「フィクションという尋常ならざるもの」への「開孔部」として浮かび上がるというより、(その分析の手つきがあまりに見事に出来過ぎているためなのか?)むしろそれが象徴的なものの圏内で律儀に機能する記号であるかのように読めてしまう。蓮實氏が表層という言葉を使う時(このテキストでは使用していないが)、それは作品の細部を(オイディプスの足のピンのような)「真理」へと還元することを拒否し、それ自体としての自律した動きや密度を「出来事」として肯定するということだと思うのだが、その分析そのものが、そこにもここにも赤と黒とが反復されている、というような、記号の、厚みを欠いた妙に生真面目な規則通りの振る舞いが指摘されているだけのように感じられてしまうのだ。
(例えば中井久夫が「世界における索引と徴候」で、記号の自律した運動があるだけでなく、記号には索引と徴候という現前とはことなる次元が貼り付いていると指摘する時、そこには表層とも真理とも違う厚みが見出されているように思う。このような厚みが生じる場は、私の固有の身体ということになろう。蓮實氏の場合、索引はあくまでテキストから別のテキストへの通路であって、そのテキストの間を渡り歩く「読む人(の記憶や身体)」が前景化することは(あまり)ない。例えば、蓮實氏のいう「映画的記憶」は、「私」に固有な記憶ではなく、私が「映画史」という象徴的なものに殉ずることによって蓄積され、構成される非人称的なものなのだ。フィクションを《肯定すべく演じられる過酷な身振り》とは、自身を、その「私の固有性」を犠牲にしても、歴史という象徴的なものの場へと殉じさせるような(そのように「演じられる」)身振りということなのだろう。そして、「真理」や「深さ」は結局、(「私」を支えるものとしての)想像的なものとして結像されるしかないからこそこれが拒否され、象徴的な秩序に従う非人称的な「表層」こそが「出来事」の起こる場として肯定される。つまり出来事とは、強度(=現実的なもの)が象徴的なもの(表層)を貫くことでそれを揺るがすことで、例えばここで蓮實氏が分析している「赤」のような記号は、象徴的なものの内部に穿たれた出来事の痕跡と言えると思うのだが、しかし実際の蓮實氏の分析から浮かび上がる「赤」はむしろ、象徴的なもののなかで安定して機能する幻想的対象(想像的なもの)、つまりフェティシズム的な対象に近いように感じられてしまう。例えば脚フェチの男にとって、象徴的なものを揺るがす拍動(強度)は、常に脚という同一の特権的な対象に吸収されるから、象徴的なものは揺らぐことなく、つまりそこでは出来事は生じない。)