『東京から考える』(東浩紀・北田暁大)2

●『東京から考える』(東浩紀北田暁大)を、とりあえず最後まで読んだ。読んでいてずっと、東浩紀の発言は多分に偽悪的なもの、割合良識的でバランスのとれた発言をする北田暁大との対比で、その方が面白くなるだろうという役割的な判断によるものなんじゃないかという疑いがぬぐえなかったのだが、最後の章を読んで、そういうことなのか、と、ある程度は納得出来た。ヤンキー的な(この本には実際にヤンキーという言葉は一度くらいしか出てこないのだが)「健全な」(という今「問題」の言葉をあえて使うけど)生殖能力(自己を再生産する力)に対する「あこがれ」のような感情が、おそらく東氏にはあるのではないだろうか。
ポストモダン的な言説の外部にある、「生殖」という問題についての関心というのは、「気分」としてすごくよく分る気がする。そしてそれが不可避的にネイションと結びつくという話も。生殖という身も蓋もない生物学的な前提は、しかしだからこそ(人間の生存の基底にあるからこそ)生物学的な次元に決して留め置くことは出来なくて、誰でもが必ず「誰か」から生まれたという形で、世代やネイションの問題に(不可避的な「錯誤」として)つながってしまう。これは「血」という言葉で要約するのは適当ではないような、デリダ的な「痕跡」みたいな意味での、脱構築不能な「生まれ」の問題ではないだろうか。あるいは、東氏が「慣習(コンベンション)」という言葉を出す時、それはラカンの「象徴界への参入」や「去勢」という言い方を思い出させる。(人は既に出来上がった環境や文脈のなかに、それに依存するしかないような無力な者として生まれる。)実際、東氏がハイデカーの名前を出しつつ、死ではなく、出生時の生物学的条件の方を強調する時、それはほとんど精神分析的な言説と重なるようにみえる。しかしまた、その問題を、デリダラカンという名前を出して、そのような文脈や文体では語りたくはない、ややこしい話にはしたくない、というのも、気分としてよく分るようにも思う。(ポストモダン的な言説の外部と言いつつ、ポストモダンな思想家はそこをこそ追求していたのではないか。しかしインテリの間で流通する「ポストモダン的言説(文化左翼?)」は、それを消去しようとしてしまう。だからそのような語彙では語らない、と。)
しかし東氏には、もっと素朴な次元で、世代やネイションという「問題」の前にゴロッところがっている、生殖という力、人は放っておけば勝手につがいになって子供をつくってしまう、という「健全」(この言葉が問題含みであることは承知の上であえて使うのだが)な力の存在を、(おそらくそれを自分自身のなかにも発見しつつ)ある種の「まぶしさ」として強く感じているのではないだろうか。
(勿論、この「健全」さを自らの意思によって否定する権利を、動物ではない「人間」である我々は持っている。あるいは、動物ではない「人間」は、自らの意思によってではなく、これを「持たない」としても、何の負い目を感じる必要もない。これは、前提として確認しておかなくてはならないだろう。健全という言葉は、それを持たない人を「欠損」だとするニュアンスを含むので、それが問題であることは間違いが無い。この点は、しつこく確認する必要がある。)
素朴な実感として、ヤンキー的な人たちをみていると、人は放っておけばつがいになって子供も自然に出来てしまうもんなんだよなあ、と、やっぱ人も動物なんだよなあ、と感じる。(高校生の時、大学に行っている先輩に聞いた印象的な話。「大学は怖いところだ。気をつけないと、気付いたら父親になっていた、なんてことが平気であり得る。」)ある種の人たちがヤンキー的なジャージ・サンダル姿をことさら嫌うのは、そこに、そのような「(動物的な)健全さ」の、だらしなくも押し付けがましい、暴力的ですらある露呈(あまりにも無条件の肯定)を感じるからではないか。それを見た人に、人間の、つまり自らの「動物的側面」を否応無く意識させてしまうような。
(ぼくがここで言っている「ヤンキー」は、普通の意味でのヤンキーよりもずっと拡張した意味で使っていて、「生物学的な次元の健全さ」、「人間工学的な心地よさ」に、何の疑問も無く平気で従って生きることが出来ているように見えてしまう人たち、という程度の意味だ。勿論、「人間」の定義上、それにまったく過不足無く自足し切ることは不可能なはずなので、それとの偏差が割合と小さい、ということだろう。しかしそこにはまた、その「生物学的な次元での健全さ」が、本当に「生物学的な次元」のものなのか、という疑問も否定できない。それはたんに「比較的に単純な物語」に従っている、ということでしかないのではないか、と。それは「文化資本」の異様な低さと関係するのか。しかし、もっと簡単にぶっちゃけて言えば、「動物的ななまなましさ」をだらっと発散しているような人ということで、このような感覚的な言い方の方が的確かもしれない。それは、ジャージにサンダル姿だろうが、ブランドで身を固めていようが、共通したある「雰囲気」をもつ人たちということでもある。例えば堀江貴文とかもヤンキー率高そう。仕事をする動機付けが「世界一の企業を目指す」というほとんど少年ジャンプ的な幼稚な目標だったりするところとか、「一番」とか刺繍したがるヤンキーとかわらないかんじがする。お金持ちで高学歴だからヤンキーじゃないとは言えない。前述したが、この本にはヤンキーという言葉は一度くらいしか出てこないのだが、ぼくには16号線的風景とヤンキー的存在(ヤンキー的内面)とは、切り離して考えられない感じがする。)
そして東氏はこのような力を、このような人たちを、このような生を「否定したくない」という気持ちが強くあるのだと思う。(これはセンシティブな問題なのでしつこく付け加えるけど、それは、そのような力を持たない人や希薄な人、嫌う人を、あるいはそのような価値観を「否定する」ということを直ちには意味しないはずだ。実際に東氏は「おたく」を自認しており、二次元萌えのような「健全さ」から遠くにある人たちの方をこそ、「個」としては「愛している」のだろうし。)そのような生を「趣味」として否定するのは(「個」としての人間的な)自由として確保されるべきだし、またそれは(思想的には)簡単なことだけど、人間工学的に整備された環境に自足しつつ生きているようにみえる人たちが多数存在するのに(あるいは自分自身の多くの部分がそこに馴染んでしまっているのに)、多くの論者は当然のようにそれを否定的に語り過ぎではないか、と。人間工学に基づく、環境管理型の都市の有り様を、東氏が必ずしも「否定したくない」と考えるのは、このような環境に自然になじんでいるかのように見える人たちの(「動物的な」と言えてしまうかもしれない)「生の有り様」を「否定的に語りたくない」と感じているからなのではないだろうか。東氏の《人間は動物であり、快楽と暴力に弱く、男女がセックスをして子供をつくる。子供は女性しか産めず、知能には一定のばらつきがあり、合理的判断には限界がある。これはもうどうしようもないことです。》という(いくらでもツッコミどころはあるであろう)発言に、それはとても強くあらわれているように思う。
しつくこ確認するが、これはポストモダン的には「生の哲学」とか言われて批判されるべき、とても危険な感覚であろう。この危険を、「類としての人間」と「個としての人間」を分けることで回避できるのかは心もとない。それは当然東氏も承知した上で、でも、今、ここをみないで済ませるわけにはいかない、と「身体的な気分」として感じているのだろう。この感覚は、ある程度は理解できるように思う。
●でも、それにしても、それと裏腹に、六本木ヒルズを「快適だ」と言ってしまったり、下北沢の再開発反対を「元サブカル少年のノスタルジーだ」みたいに言ってしまうのは、何か「文化的なもの・インテリ的なもの・スノッブなもの」に対するアンチの気持ち(反感)が強く出過ぎているのでは、と思ってしまう。スノビズムを嫌うあまり、逆のスノビズムに陥っている、というのか。それが「人間的なもの」なのか「動物的なもの」なのか分らないが、それはちょっと違うのではないか、単純に「気持ち悪い」ではないか、という(これもまた身体的な)違和感は、簡単には消すことは出来ないはずだとも思う。