●八月になった。こんな季節なのに、しかも夜中じゃなくて昼間なのに、眠っていて、震えるほどの寒気で目が覚めた。歯がガチガチするほど。寒気がするような恐ろしい夢もみていた(内容は忘れた)。パーカーを着て、もう一度眠ったら寝過ぎた。というか、今日はずっと寝ていた。近くの大きな公園で花火大会があって、うとうとと眠りながら、ずっとその破裂音だけを聞いていた。
●『桜金造のテレビで言えない怖い話』で、最後に収録されている「海開き」の話がもっとも物語として入組んでいる。でもこの話の面白さもまた、物語としての面白さとはちょっと違う。
ある地方の海岸へ海開きのイベントのために行く。イベントの前日の夜にホテルに入る。そのホテルの部屋で、桜金造がイベント会社の人と二人で窓の外を見る。窓の外はすぐ海で、夜の海を泳いでいる人影がある。しかしそれは明らかに人ではなく、巨大なグレーの人型の何かで、しかもすごいスピードで(クロールで!)泳いでいる。恐ろしくなった二人は、同行していた若手の漫才コンビ二人と、四人で同じ部屋で寝ることにした。夜中にふと目が覚めると、イベント会社の人が苦しそうにうなされているが聞こえた。そちらを見ると、その男が蒲団ごと浮き上がっていた。助けなきゃ、と思ったが、自分も金縛りで動けない。頭のなかのイメージでは、イベント会社の男の腕をぐっと掴んで引き戻そうとしているのだが、しかし実際に身体は動かない。そのうち意識を失ってしまう。起こされて目覚めると次の朝で、とても良い天気だった。イベント会社の人が近づいてきて言う。「金造さん、昨晩はありがとうございます。金造さんが腕を握ってくれなかったら、あのまま海の方へ引っ張られてしまうところでした。あれで助かりました」。朝は晴天だったのにイベント中に急に嵐のようになる。その海で、昨年サーファーが遭難して、まだ死体が上がっていないことを知る。「そいつがまだ死んだのを知らないで、あんなに巨大にグレーのものになって、今でも泳いでるんだ」。
ここまではごく普通の怪談だが、ここからがちょっと違う。それからしばらくして、テレビ局の廊下を歩いている桜金造に声をかける人がいる。あのイベント会社の男だ。金造さんに見せたいものがあるんですよ、と言って財布から写真を出す。その男がパーティーで誰かと話しているスナップ写真だ。しかし、グラスをもっている男の腕のところに、「手首から先だけしかない手」があって、腕をぎゅっと掴んでいる。「気持ち悪いなあ、なんでこん写真財布に入れてるの、捨てなよ」「そのうち金造さんに会うことがあると思って、見てもらうために持ち歩いてたんですよ、この手、金造さんのですよね」。
この話の面白さはどう説明出来るのだろうか。明らかに、この話の怖さ(面白さ)は、海を泳ぐ巨大な影や、サーファーの死や、空中浮遊や金縛りや心霊写真にあるのではなく、イベント会社の男と桜金造との関係にある。まず第一段階として、何者かによってどこかへと引っ張っていかれそうになった男がいて、それに気づいた桜金造が、イメージとしてだけ、男を引き戻そうとする。そのイメージによって男は助かり、イメージの腕が桜金造のものであることを、男は知っている。あるいは、その「腕を掴む」という行為は、意識を失った後の桜金造の行為であって、桜金造自身が自分の行為を知らない(意識のコントロールを失った自動的な行為であった)ということかもしれない。ここには、認識と結果、意識と行動の乖離のような気味の悪さがあり、分身の生まれる感覚の萌芽がある。しかしここまでだと、桜金造は、自分が男を助けようと意識していた、腕を掴むという行為をイメージしていた、のだから、それほど気持ち悪いということはない。むしろ、超現実的に何かが起こったという、美談に近いものだ。
しかし第二段階ではいっそう気持ちが悪くなる。男は、手首から先だけしかない、切り取られた手が、自分の腕をがっしりと握っている写真をもっている。このような心霊写真それ自体は、きわめてありふれている。しかしこの男は、本来なら気味の悪いものであるはずのこの腕を、自分を助けてくれた「金造さんの手」だと思っている。しかしこのこともまた、男はとても怖い目にあって、それを「金造さんの手」によって助けられたという認識があるので、たまたま撮れてしまった心霊写真の「手」を「自分を守ってくれたもの」として認識することを理解出来ないことはない。男の側から事の顛末をみると、それほど不思議ではないと言えるのかもしれない。とはいえ、写真に写ったものが「金造さんの手」だとすると、実際にそれとは別に、生きた桜金造にくっ付いている「手」と「それ」との関係はどうなっているというのか、という疑問は残り、ここでも分身の生まれる感覚が生じるだろう。ここで男は、昨日書いた「生き霊」の女と同様、(部分的)ドッペルゲンガーを当然のこととして受け入れていることになる。
桜金造の側からこの話をみたらどうか。男からいきなり気味の悪い心霊写真を見せられ、しかもそこに写っているのが「自分の手」だと言われる。勿論、そのような身に憶えはないだろう。桜金造は、そこで二つの分裂した気分に襲われるのではないだろうか。一つは、この男は、こんな写真の手を自分の手だと言うくらいの勝手な思い込みが激しい奴だから、あのホテルで自分に助けられたと思っているのもたんなる思い込みか勝手な妄想で、つまりもともと、自分が男を「助けようとイメージしたこと」と、男が「自分の手に助けられたと思っている」こととは何の因果関係もなく、自分のイメージと男の妄想が偶然重なっただけで、男は本当は「別の手」によって助けられたのだ。つまりこの男には、守護霊だか悪霊だか知らないが、何か妙なものが取り憑いているのだ、という感じ(つまり、この「男」を気味が悪いと感じる)。もう一つは、あのホテルで自分は、確かに男を助けようとイメージはしたが、金縛りで動けず、実際には何も出来なかったと認識している。しかし男は自分に助けられたのだと言っている。だとすれば、自分の身体が自分で意識しないうちに勝手に動いて男を助けたか、そうでなければ、自分から分離したもう一人の自分が男を助けたということになるのではないか。自分の身体が自分の意識から分離して、あるいは、自分の身体からもう一つの身体が勝手に分離して、男を助けるということがあるのなら、男の言う通り、自分にはまったく身に憶えのないこの「手」が、確かに自分の手であるということもあり得るのではないか、という感じ(つまり、自分による自分自身の制御を信用ならないと感じる)。そしてこの話の面白さ(気持ち悪さ)は、この話を聞いた者が、両方同時に感じつつも、後者の感じをより強く感じるからなのではないだろうか(しかしだとすると、桜金造の制御下にはないどこかで勝手に動いている彼の分身は、今、片手を失っているということのだろうか、あるいは、全身とは別に、そこからさらに切り離された、右手なら右手の分身というのも存在するのだろうか)。
この話は、「生き霊」の女性が、キッチンへとすっと消えて行く青いワンピースの女を「あれ、わたしだ」と言う時の感じを、桜金造自身が、自分のこととして味わうように設計された話、つまり「生き霊」とは切り返しのカメラポジションにあるような話だと思う。そして、この「分身」の感触へのリアリティーへは、幽霊好き系の人なら、誰でも強く持っているもののように感じる。宇宙人好き系の人だったら、この分身の感覚は、これとはちょっと違った形をとるように思われる。