●富士山がやけに近く見えた。
●一昨日の日記に書いたドイッチュの本はあれから進んでいない(4章まで)のだが、先を急ぐより、ドイッチュの科学についての(というより「実在」についての、と言うべきか)考え方をもうちょっとちゃんと押さえておきたい。
《自然からは理論のいかなる断片も文字通り「読み取る」ことは不可能である。それは帰納主義者の誤りだ。しかし、実際にそこにあるのは証拠である。もっと正確に言えば、もしわれわれが適切に相互作用すれば、証拠によって応答する実在なのだ。(…)労を厭わなければだれでも、それを探索し、見つけ、そして改善することができる。許可も、入門も、聖典も要らない。必要なのは、正しい方法で---発展性のある問題と有望な理論を心に抱いて---見ることだけである。証拠だけではなく、知識獲得のメカニズム全体への、この開かれたアクセス可能性が、実在に対するガリレオの考え方のもっとも重要な属性なのだ。》
ガリレオはこれを自明と考えたかもしれないが、そうではない。それは物理的実在がどのようなものかについての、実質的な主張である。論理的に見れば、実在には科学に都合のいい性質が備わっている必要はない。しかし、現実には備わっている---しかもたっぷりと。》
●これがぼくにはすごく面白い。引用の一つ目のブロックだけをみると、割と単純な科学礼賛のように読める。科学とは、誰にとっても平等な、実在への開かれたアクセス可能性そのものなのだ、というような。しかしそれでもここでは、科学はあくまで「発展性のある問題」とその適切な解決(説明)の体系であって、それは直接的に(実証主義的に)実在から読み取られるものではない、という含みがある。科学は、その適切な「説明」に対して実在から「証拠」が返されるという相互作用でのみ、実在と繋がっていることになる。
そして次のブロックでは、このような科学による実在への開かれたアクセス可能性は決して「自明のもの」ではなく「(ガリレオによって開かれた)実質的な主張」であると言われている。ここでは、「主張」をそのまま「信仰」に置き換えても意味はほとんど同じだと言える。つまり、科学が実在への開かれたアクセス可能性であることに根拠などないと言っている。《論理的に見れば、実在には科学に都合のいい性質が備わっている必要はない》というのはつまり、科学が実在と相互作用していなければならない必然性はないし、根拠もない(相互作用しているとしても、その理由は分からない)、ということだ。しかし《現実には》、何故か、相互作用しているとしか思えない「結果(証拠)」が実在の側から返されてきてしまうのだ、ということだろう。つまりそれは、そのような「信仰(主張)」に沿って探求をしはじめたとたんに、とてつもなくすごいことが次々分かるようになってしまった、というようなことだ。と、何故だかわからないが、科学(という主張-信仰)はたまたま、いきあたりばったりであるかのように「実在の水脈」を掘り当ててしまったのだ、と。
科学には、何故かたまたま上手くいってしまったという以上の根拠はないが、しかし、たまたま上手くいってしまったという事実こそが、実在と繋がっている最大の根拠なのではないかと、ドイッチュは言っているように読める。
●そしてそこでドイッチュが取り出してくる「根拠」(これもまた「科学」であるからには「今のところ最も適切であると考えられる」という以上の「根拠」はないはずなのだが)は、宇宙の「自己相似性」というようなことだ。でもこれも、信仰ではないにしろ、直観のようなものなんじゃないかという気がする。
《(…)物理的実在はいくつかのレベルで自己相似的である。宇宙と多宇宙の途方もない複雑性のなかでは、その複雑性にもかかわらすいくつかのパターンが際限なく反復している。地球と木星は多くの点で極端に違っているが、どちらも楕円を描いて運動しており、(比率は異なるが)同じ百種類かそこらの元素の集合でできており、平行宇宙におけるそれらの対応物もそうだ。》
《遠方の銀河からわれわれに届く光は、結局のところ光にすぎないが、われわれには銀河のように見える。このように、実在は証拠だけでなく、それを理解する(われわれの心とわれわれの人工物のような)手段も含んでいる。物理的実在のなかには数学的記号がある。その記号は、そこに置いたのがわれわれであるという事実のために、それだけで物理的でなくなることはない。それらの記号のなかには(…)、全体として物理的実在のイメージ、物体の外観だけでなく実在の構造イメージがある。還元的および創発的な、法則と説明がある。ビッグバンの、そして素粒子とその過程の記述がある。数学的な抽象がある。想像、芸術、道徳、影の光子、平行宇宙。これらの記号、イメージと理論が真である---つまり、それらがその指示している具体的あるいは抽象的な事物に、適当な面で類似している---かぎりにおいて、それらの存在は実在に新しい種類の自己相似性、われわれが知識と呼んでいる自己相似性をたらすのだ。》
●銀河からの光をわれわれが「銀河」だと理解するのは、われわれの心のなかに銀河と相似的な何があり、それらが相互作用するからだ、というようなことが言われている。そしてその相似的なパターンもまた「物理的に実在する」と言うべきだとドイッチュは主張している。数学的記号によってある抽象的な何かが指し示され、それをわれわれが何かしらの形で「理解する」としたら、そこで示された抽象物も、それを表現するために用いられる数学的記号も、ともに「実在する」。実在には「証拠(説明が適切であることを示す宇宙からのリアクション)」だけでなく、そのような説明を「理解するための手段(われわれの心や記号的操作)」も含まれている、と。
●そうなると、例えば、いくつかの数学的記号を用いて計算を行うことと、いくつかの部品で出来た機械が作動すること、いつくかの物質が反応し合って化学変化を起こすこと(もっと言えば、いくつかのタンパク質で構成された生命が生まれて死ぬこと)が、同値となる。実際に計算するのは、脳でありコンピューターであるとすれば、抽象的な計算もまた物理的過程であるという考えもすんなり受け入れられるだろう。しかしそれだけでは、抽象的なものを物質的な過程に還元するだけになってしまう。ここでドイッチュの言おうとしていることはそれとは違う。抽象(計算そのもの)も物質-具象(ニューロンの発火)も、そのどちらもが物理的な「実在」であり、お互いがお互いに対して織り込まれている(自己相似的である)ということだろう。
だとすればドイッチュの言う「実在」とはそもそも、双方(抽象と具象、精神と物質、理解の手段とその証拠)が互いに対して互いに織り込まれているという時の、その「織り込まれ」のあり様のことなのではないだろうか。