●無事、今年最後の締切を終えた。12月は雑用が多くバタバタしていて、あまり集中して本を読んだりできなかったけど、『時間と自由意思』(青山拓央)はとても面白かった。面白いとは言っても、この本の示す「結論」は、ぼくが最も恐れている「直観」---この「直観」が間違いであってほしいと全力で願っているもの---とぴったり重なるので、できれば読みたくなかったというか。
《世界がこのようなものであることを肯定する余地だけでなく、世界が存在すること自体を、その世界がどのようなものかと独立に肯定する余地もないのではないか。「様相の厚み」の失われた世界は、別様であることができないだけでなく、存在しないこともできないのだとすれば。そのように理解されたとき、世界が存在することは恩寵ではなく、ただそれきりの現実となり、真の意味での現実主義者とはこのことを信じる者を指すだろう(存在驚愕からの目覚め)。》
《なるほど、九鬼の言う経験的次元から形而上学的次元へと昇るとき、「存在の無限の可能性の充満」たる絶対者(神)を見出すことにより、この世界はその始原において他でもありえたものに見える。だがそれはけっして、世界そのものの「無」がこの世界の「有」に対する他の離接肢となることを意味しない。この世界の「有」の離接肢となるのは他の世界の「有」であり、「無」をそれらと併置することはできない。》
《にもかかわらず、九鬼は『偶然性の問題』結論部において「無」が「有」に離接しうるかのように語り、ホンデリックの〈肯定〉とも親和する、ある種の悟りへの誘惑を行う。先述の意味での現実主義者としては生き続けることのできないわれわれに向けて。》