阿部和重『ニッポニアニッポン』を読む

(昨日につづき、『ニッポニアニッポン』について、もう少し。)

阿部和重の小説は、基本的に「私」と世界の闘争を描いていると言える。その時、「私」は、すでに様々なメディアによって世界に貫かれた、世界によって造形された存在(データベース=インターフェイス的な私?)としてしか描かれないし、「私」の世界への闘いは、結果的に空回りし、失調してしまうしかないとしても、「私」が世界から何かしらの異変を察知し、それを回収すべく、情報を集め、思案を巡らし、世界に対して有効な一撃を加え得る存在となるべく自らを鍛える過程が、小説の多くの部分を構成していることに違いはない。主人公が世界を回復しようという思いの、あるいは欲望の、その「熱さ」(その「熱さ」は、無論常に笑いとともにあるようものなのだが、そしてその笑いこそが最大の魅力であるのたが)が、テキストの持続を(その持続の動機づけを)保障し、必ずしも主人公に感情移入している訳ではない読者にもその「熱さ」はある程度感染し、テキストを読みつづける時の動機にもなるのだ。(後藤明生によって見いだされた、様々な意味で後藤明生的な小説、『アメリカの夜』が後藤氏と決定的に異なるのは、このような「動機の熱さ」であって、後藤氏は、そのような「熱さ」、つまり対立とは徹底して無関係にテキストを構成しようとした。)しかし、「私」対「世界」という図式を採用する限り、「私」が構成する世界は、決して「世界」そのものには届かず、厳密には妄想と区別が出来ないものであり、世界のリアリティは、その世界像(妄想)が破られる地点にしか見いだすことが出来ない。つまり極端なことを言えば、阿部氏の小説には、私と世界(味方と敵)しか存在しないのだ。世界のなかに特権的な対象があり、それを獲得するためのほとんど妄想と区別のつかない計画をたて、世界=敵の顔色を慎重に伺いつつ、鍛練を欠かさずにチャンスを待つ人物の、滑稽な運動性、その悲喜劇。

ニッポニアニッポン』を読んでいて気になったのは、終盤にちらっと出てくる瀬川文緒という女の子との、佐渡をドライブする短いエピソードだ。緊密に構成されたこの小説のなかで、取ってつけたようにも感じられる緩いエピソードではあるのだが、ここには今までの阿部氏のテキストには存在しなかったもの、世界と、「私」とは別のやり方、別の原理、別の利害で向き合い、それを処理している者=他者との並立、のような事態が、ちらっと現れているのではないだろうかと感じた。この瀬川文緒という女の子は、最初は、主人公にとって世界のなかの特権的な対象であり躓きの石でもある本木桜という存在が回帰したもの=幽霊として登場する。(その部分を読んだ時、ぼくはアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』で、主人公と関係する女を全て同一の女優が演じているのを見た時のように、とてもうんざりしたのだった。)しかし、まるで何度も回帰するトラウマのように登場したその女の子は、次第に、普通の女の子、ただどこにでもいるような、主人公にとって特定の意味に染められていない存在へと変質してゆくのだった。何か特定の意味がある訳ではないが、しかしそこに確かに存在するという不定型の厚みをもった存在。今までの阿部氏の小説に、普通の女の子が、大した役割ももたずに、ただ登場し存在しつづけるという事態が一度でもあっただろうか。2人は全く別の目的、別の思いをもちながらも、一台の軽自動車に並んで乗り込み、観光地を一緒にまわるのだ。極端なことを言うようだけど、ぼくはこの部分を読んでいるとき、この弛緩した佐渡ドライブが、前半の緊密に構成された妄想=物語と同じくらいの長さつづいたら、阿部和重にとって、今までないような特別な、画期的な小説になるのではないか、とちらっと思ったのだった。

阿部氏の小説に対する基本的な疑問は、主人公がもつ妄想と区別のつかない緊密で強度に満ちた世界像も、その世界像をあっけらかんと無化してしまう現実も、共に作家である阿部和重によって構築された(コントロールされた)ものでしかない、ということなのだ。勿論、阿部氏のテキストは、単純には、作家という主体によって完璧に制御されたものとは言えないくらい、めくるめくような雑多な情報が投げ込まれていて、それによってテキストに無数の外への通路が走り、それが阿部氏の小説のリアリティーを支えるものになってもいるだろう。(その「情報」が存在している現実社会の動きを、阿部氏がコントロールすることは出来ない訳だし。)しかしそれらの雑多な情報も、阿部氏の特異な才能によって見事に整理され、雑多な情報の荒れたテクスチャーなども上手く生かしつつ、きっちり阿部和重的な小説へと、「熱い動機」によって中心化された世界へと、編み上げられてしまう。それはとても立派なことではあるのだが、そのテンションの高い立派な構築が、結局いつも「私」と世界との闘争という「落としどころ」に納まってしまうようにみえるのが、ちょっと残念でもあるのだ。

阿部氏の小説を読んでいると、「物語」を語るというのは、結局、情報をどのような順番で示し、それをどこまで示して、どこを示さないか、というさじ加減のことなのだなあ、とつくづく思うのだが、でもそれって情報操作ってことだし、「支配者」の手口じゃん、とかも、思ってしまうのだ。

(いや、基本的には好きなんですけど。ホントに。)