阿部和重『ニッポニアニッポン』を読む

新潮6月号に載っている阿部和重ニッポニアニッポン』を読む。阿部和重の小説は、基本的に孤独な人物のモノローグによって出来ている。この小説において、主人公と語り手の間に微妙な距離が設定されているが、それでもこの小説の流れそのものが、主人公の妄想の展開や気分の変化とほとんど同調していることに変わりはない。一方で、粘着質にパラノイアックな妄想をかき立てその妄想を着々と構築的に展開してゆくこの男は、同時に忘れっぽくて矛盾に気付かず、その時々の気分に支配されやすく、単純で直情的ではやとちりで、意志が薄弱でもある。このような主人公の性質が、ほとんどそのまま阿部和重のテキストの表情をかたちづくっていると言ってもいいだろう。勿論、このような性質が作家である阿部氏の人格を反映しているだろうなどというバカなことを言いたいのではない。このような設定の人物が、小説に阿部和重的な運動を実現させるための装置として、ほとんど唯一の装置として、いつも機能している、と言いたいのだ。

孤独な人物の孤独な妄想を延々と書きつづってゆくこの小説は、しかしちっとも閉じられたものにはみえない。それは、孤独な妄想をユーモラスな活劇のように書いてゆく阿部氏独特の筆致のせいもあるだろうが、それだけではなくて、この孤独な少年に孤独な妄想を持つことを許している条件が、決して「内面的」な理由などではなく、少年に仕送りをしつづけることのできる両親の経済的な余裕だとか、閉じこもったままでも様々な情報を得ることを可能にするインターネットによる環境などの、社会的な条件に支えられていることがきちんと書き込まれているからだろう。ほとんど誰にも会わずに一人で生活している少年という存在自体が、既に、周囲から切り離されてある「孤独な魂」などではなく、社会的に構成されたひとつの現象であり、様々な社会的な力に接続し、それらの錯綜によって可能になったひとつの場でもあるのだ。阿部氏の小説の主人公が、ごく自然に読むとそれが人格(内面)を持った一人の人物であるという説得力に乏しく、いかにも狙ってつくられたようなわざとらしさを感じさせるのも、彼(登場人物)のつくりあげる妄想が、一人の特異な存在が築き上げる独創的な創造物などではなくて、そこここに流通している社会的な言説が、たまたま妙な形で一人の人物という場所で切り貼りされたものに過ぎないからだろう。(勿論、だからこそリアルなのだ。)

孤独な妄想、孤独なモノローグのなかに既に、様々な外部が流れ込んでおり、それが社会的な条件によって成立したものであるとしても、それはひとつの吹きだまりのようなものであり、常に流動的に変化しつづける現実とはやはり切り離されているので、それは現実とはスムースに接続されないし、現実とは別の場所で、現実とは別の原理でどんどん展開していってしまう。しかし、阿部氏の小説の主人公たちは、決して現実を無視して妄想の世界に逃げ込んだりはしない。出来得る限り情報を収集しようとするし、得られた情報をもとにして必死に思考を巡らせて認識をつくりあげるし計画もたてる、それにもとづいて、しかるべき一瞬に一撃で世界を変容させてしまうべく、自らを鍛練することも忘れはしない。でも、結果としてそれらは全て、妄想を肥大化させることにしか貢献しない。そして、あっけらかんとした現実は、それらの努力を、何の悪意もなく無表情なままであっさり無駄なものにしてしまう。だから、主人公は悲劇を生きることすら出来ずに、ただ空回りするだけだ。この空回りの瞬間にこそ、一瞬だけ妄想は解かれ、それが世界と接触し、笑いを誘い、世界を肯定することができるのかもしれない。しかしそれによって、世界は少しも変容しはしない。その後も妄想はシャボン玉のように、日々生まれては、解けてゆくだけだ。

このようなことは、『ニッポニアニッポン』に限らずに多くの阿部和重の小説に言えることで、このような状態を描くとき、阿部氏のテキストはとても高い質を獲得することができるのだと思う。しかし、上記のような構えでは、結局無数のドン・キホーテのバリエーションを描くことにしかならないのではないか。勿論、ドン・キホーテはうつくしいし、ドン・キホーテであることは不可避だとすら思う。でも、ぼくが必要としているのは、それとは別種の世界との接触の仕方だと思うのだ。例えば阿部氏の小説でも、『みなごろし』などは、それとは少し違った世界との接触の仕方によって貫かれているように思う。

(阿部氏が「トキ」を題材にしたことの批評性や、律儀に具体的な年月日を書き込んでいることの意味については、ぼくには明確には論じることが出来ないのだった。)