セドリック・カーンの『倦怠』をビデオで

セドリック・カーンの『倦怠』をビデオで。どう考えても強引で無理のある展開をテンポの良さだけで納得させ、古臭くて特別面白いとも思えない題材を丁寧で冴えた演出で最後までみせ切ってしまうセドリック・カーンの演出家としの力量は大したものだとは思う。ただ、ぼくとしては、決して理知的に処理出来ない、内面化することの出来ない世界の不透明さ理不尽さのようなものが、ひとりの「女」という形象において集約的にあらわれるという話は、ちょっと同意しかねるというか、うんざりするしかないのだ(例えばユスターシュにしてデプレシャンにしても、女は常に複数に割れて登場する。)。でも、その「女」が、いかにも男を惑わす女という感じとは全く異なった、ただ鈍重にどーんと存在する肉の塊のような女で、男の欲望を巧みに挑発したりはぐらかしたりするような人物ではなくて、あらゆる「意味」への欲求を吸い取って無化してしまうような空洞のような塊であり、勿論無垢というのとも違って、徹底して重さも抵抗感もない存在でありながら、肉体的には、重さと抵抗感の塊のような人物であるところが、面白いと言えば面白い訳だけど。よく、女優の「体当たり演技」などというバカな言い方があるけど、文字どおりどーんと体当たりをくらわしてくるようなソフィー・ギルマンという女優の肉のやわらかい重さは、しかし湿った感じやニュアンスといったものを持たずにサラッとしているし、その立ち姿や歩き方は、服を着ていても裸でも、どちらでも素晴らしくて、ドスドスドスと歩くその堂々としたリズムが、セカセカと流れがちなこの映画のなかで際立っている。この映画では女が男に誘惑の表情をみせることなど一度もなくて、だから男はただもう自ら墓穴を掘り、自分で仕掛けた罠に自分で掛かるように、自らドツボにはまって一人で独楽のようにクルクルと回っているだけなのだった。

意味のないところに意味を必死で見つけだそうとし、秘密などないところに秘密の匂いを嗅ぎ付けて、自分勝手にドツボにはまって自滅してゆくインテリ男の神経症的なセカセカした動きのリズムが、この映画を支配するリズムになっている。シャルル・ベルリングは、この男を、中年男の実存的な重さ、粘つくような鈍重さとは無縁に、ほとんどドタバタ喜劇のようにあくまで軽やかな運動性において演じていて(いきなり走ったりするし)、しかしこの運動性は、アメリカのスクリューボール・コメディのような純粋に抽象的なフォルムにまで達することはなく、常に具体的な次元での「苛々」とともにあるもので(この辺がとてもヌーヴェル・ヴァーグっぽい)、だからどこまでも見苦しくみっともない。この落ち着きのなさやみっともなさを見ると、映画好きの人なら誰でもジャン・ピエール・レオーを思いだすと思うけど、レオーの場合は、どこか愛らしさとか、飄々とした味のようなものとともにあると思うのだけど、ここではただもう徹底して見苦しくてみっともないのだった。(みっともなさを、中途半端に人物の魅力で救わないところが、潔くていいのだ。)このみっともなさを具体的にひとつひとつの細部を重ねて表してゆく演出はとても冴えていて素晴らしく、中年の哲学教師が若い女にハマッて自滅してゆくという、聞いただけでうんざりするような話を、ただその冴えた才能だけで面白い映画にすることに成功している。ただ、これだけ素晴らしい演出家が、何故わざわざこんなにつまらない題材を取り上げるのかがぼくなんかにはよく分らないのだ。(ソフィー・ギルマンという凄い女優を発見したからなのだろうか。)よく知らないのだけど、フランスという所は、今でもこのような話がある程度「風刺」とか「挑発」として切実な有効性を持ってしまうような社会なのだろうか。