アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』

アンゲロプロスの『永遠と一日』をビデオで観直していて、このとても美しい、何かが崩壊してゆく様を前にして、その崩壊の内部にいながら、崩壊に安易に同調してしまうことに断固として抵抗しているのだけど、その抵抗の素振りそのものが「崩壊」という事実の肯定に他ならず、緩やかに崩壊してゆくその緩やかな速度のなかにしか自らのいる場所をみつけられず、しかしそれでも断固として崩壊には抵抗する、というアイロニカルな頑固さのなかで、ひたすら自らの強度を高めていくような映画を観ていると、このじっくりとふんばりつづける持続の姿勢の強さに打たれながらも、昨日観たソクーロフの『ドルチェ-優しく』が、そのような閉塞感とは全く無関係に、軽々しいフットワークと動物的な素早さによってつくられていることに、改めて気付くのだった。

アンゲロプロスの映画の運動が、いつも重たいものを背負っての重厚で緩慢なものであるのに対して、ソクーロフは、ほとんど運動を停止してしまったかに見えるような淀んだ状態から、まるで猫がヨーイ、ドン、のヨーイの姿勢なしに静止からいきなり運動へと移り変わるように、いきなり動きだして何かをつかみ取ってしまうのだ。(例えば『ドルチェ=優しく』で、ある土地に生きるひとつの身体と、その土地に太古から吹付けているであろう雨風とが、並立していながら、ふいに交錯してしまう瞬間。)何年か前の『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』の座談会で誰かが、ソクーロフは世界に亀裂がはしるのをカメラを向けて待っているから、待っているうちに飽きちゃうんだ、とか、世界から何かが降りてくるのを「受け身」の姿勢で待っているのだ、という発言をしていたと記憶しているのだが、多分それはちょっと違っていて、世界には常に既に亀裂がはしっているのであり、だからこそ映画作家は世界にカメラを向ける訳で、カメラを向けつつ亀裂を探っているソクーロフは、鋭敏な嗅覚である瞬間に亀裂のありかを察知すると、動物的なスピードでそこへ一気に「攻め込んでゆく」のだと思う。(構築的な作家ではなく、狩猟的な作家だとは言えるかも。)ぼくがソクーロフは本当に凄いと思ったのは実は『精神の声』で(ソクーロフが最初に日本に紹介された時は、なんでこんなのが良いのかちっとも分らなかった)、多分ソクーロフはそれ以前にビデオというメディアについてなど大して考えてはいなかったのだと思えるのに、ビデオ装置を手にするやいなや、いきなりあんな作品を実現させてしまうのだ。ソクーロフは、今どき珍しい、笑ってしまうくらい大時代的な「芸術家」ではなくて、現代的なメディア環境にも極めて鋭敏に反応する現代作家なのだ。この鋭敏な感覚こそが刺激的なのだと思う。確かに、「なんだよこいつ」と思ってしまう部分も少なくなくて、ぼくとしても全面的に肯定はできないのだけど。