アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』

BOX東中野で、アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』。ぼくは必ずしもソクーロフを「好き」ではないのだが、それでも、ソクーロフが恐ろしいほどの動物的な嗅覚をもった天才であることは疑いようのないことだと思える。例えば、この映画の正方形という画面の形態にしても、考えに考え、練りに錬った「狙い」としての正方形でもないし、ある刺激的な「試み」としてやってみたという正方形でもなく、なんというか何の言い訳もなしに「いきなり」正方形な訳で、そしてその「いきなり」が、後からみれば画面が正方形をしていることが特異なことだという事実をふと忘れてしまうくらい、納得のいくものになってしまっている。ソクーロフというのは「映画史」によって支えられなくても映画がつくれてしまうような人なのではないか、映画史はソクーロフを必要としても、ソクーロフは映画史など必要としない、今、たまたま映画と関わってはいるが、映画と関係のない場所にいても、いつどんな状況においても、ソクーロフの鋭敏な嗅覚は、その場所で何か本質的なものを掘り当ててしまい、それをどのような形ででもモノにしてしまえるのではないか、とそんな感じがする。確かにソクーロフの映画には、許し難いと思える程に反動的ところがあって(例えば『精神の声』第一部のあのナレーション、なんなんだあれは!)、観ていてしばしば不快にさえなるのだが、それでも凄いと言わざるを得ないし、最終的にはねじ伏せられるようにして納得させられてしまう。鬱陶しい程の繊細さと、恐ろしい程の図太い力強さ。

スクリーンの両側に黒い余白が出来てしまう正方形の画面は、どこかポラロイドカメラによる写真を思い起こさせるもので、正方形という形態から、いつも以上に画面は静態的で動きがないのだが、しかし、四角く区切られたフレームの内部は、いわゆるアクションとは全く別種の、画面内部の粒子のひとつひとつが常に細かく振動しているような、静かなようでざわざわしているような、不思議な動きでみたされている。複雑な多重露光と現像処理によるのだろうが、画面のトーンは常に微妙なムラを含んでいて、明るさや色調も常に少しづつ変化している。冒頭の、舟の先っぽのソクーロフらしい人物の後ろ姿と、ラスト近くのあの素晴らしい嵐の山のショット以外は、ほとんど全て室内で、一人芝居のように生い立ちを語る島尾ミホの姿(いや、語ってるのではなく、はっきりと演じている)を、ゆっくりゆっくりとショットを重ねながら追ってゆく。島尾ミホの声(正直言うとぼくはこの声をあまり好きではない。好きではないと言うか、どこか安心できないような、なにか神経を常に引っ掻かれるような感じがする声。声と言うより、口調がそうなのかもしれない。演じることに慣れていない人が演じている時の口調。)、廊下がしなる音、畳を足の裏が擦る音など、その場で見えるものが発している音の他に、ノイズと混じった潮騒が強くなったり弱くなったりしながらずっと持続していて、それがふと気がつくといつの間にか雨音に変わっている。(島尾ミホの語りを追い掛けるように、ソクーロフのナレーションが少しズレてかぶさる。)途中何度か、画面が見えない状態(実際には見えているのだが、見ていても見えていない状態)になり、音だけを聞いている感じになる。ふと、画面と音とがほとんど無関係に存在しているのではないかと思えてくる。その時にはっきりと、これはドキュメンタリーではなく、演じられた語りであり、つくられた時間なのだということを確信する。階段を捉えた俯瞰のショット、階段の下から「マヤさん」と声をかける島尾ミホ、そしてゆっくりと上から島尾マヤが降りてくるシーンの素晴らしさに打たれる。階段の手すり越しに2人が抱き合うとき、おそらく不自由であるだろうマヤさんの右足が、座りの良い場所を探して微妙に所在無さげに動く、その些細な動きの表情までもカメラはきちんと捉えている。母と娘は別れて、母は再びひとりになって、娘について語りはじめる。それを覗き見ようとする娘の顔が、ピントがぼけたまま画面の隅をチラチラするときの、不思議なサスペンス、と言うか胸がぎゅっとなるような感情。いつの間にか、雨風の音がとても大きくなっている。そして、あっと驚くしかないような、素晴らしいラスト。正直、島尾ミホの自分語りにうんざりしていなかった訳ではないぼくも、この圧倒的なラストを見せられれば、無条件に納得するしかないのだった。ソクーロフは天才だと言うしかない。ああ、南の島だ、という感じと、そして、場ちがいではあるけど、「雨が降るように人が死ぬ」という言葉を思いだした。

この映画を観ている間に、ぼくがずっと思っていたのは、ぼくの祖母のことだった。ぼくはいわゆるお婆ちゃん子で、子供の頃から、そして今でも実家に帰ったりするとそうなのだが、祖母の昔の苦労した話というのを、それももう何十回何百回とくり返し聞かされた話を、下手をすると何時間にも渡るような話を、聞いてきたのだが、それを聞く時の、苛々するような感情、それはもう何回となく聞かされた話だからというだけでなくて、その話が、表面的にはいかにも優しく謙虚であるように聞こえるが、実は、田舎の人独特の、いつも自分たちが世界の中心で、自分たちの価値観こそが絶対だというような驕った感覚を露にしているものだからなのだが(それを聞かされる方の都合もあまり考えてないし)、そうした苛立たしさと同時に、目の前にいて言葉を発している身体が、もう80年以上生きてきていて、その声、その言葉、その話が、そのような時間をくぐり抜けて来たものであることへの(確実にある強さや深さを持っていることへの)、驚きや感動や敬意のようなものも感じさせるものな訳で、それに加えて、肉親でありぼくの幼年時代の少なくない時間をかなり密着して過ごしてきたことからくる愛情と反発も混じっていて、なんとも複雑で困った感情とともに、結局ずるずると長時間話につき合うことになるのだが、そうした困った感じを、なんとなく落ちつかない感じを、ぼくは島尾ミホ氏の自分語りからもずっと感じていたのだった。