02/01/23

●歩く。風邪が治って、外は気持ちよく晴れているので、風は冷たく吹き抜けるけど、歩くことにした。生け垣の前を通ったら、ミャーミャー鳴く声が聞こえたので、掻き分けて覗いたら、猫が、生け垣のなかに埋まるように丸くうずくまっていた。緑地のなか、細かくくねくね曲がりながら登り降りする道を早足で歩いてゆく。空間のなかを身体が移動してゆく感覚。
●よい絵画は、身体にある運動感覚のようなものを与える。装飾的な作品が、どんなに華美な、あるいは繊細な、視覚的刺激を組織しているとしても、それを観て、ググッと運動感覚が駆動しなければ、そのような作品を面白いとは思えない。その時の運動感覚というのは、たんに引かれた線が、それを引いている画家の身体の運動をナマナマしく感じさせる、というようなレベルだけのことではない。(身体的な「行為の直接性」にたよっているような絵画は、むしろ幼稚なものだ。)例えば、CGでつくられたような、直接的には身体による関与を感じさせないような作品でも、そこに「複数の異なる次元の共存」によって、視線をわずかに動かしたり、注目する範囲を移動させたりするだけで「基底的な空間が揺らぎ、動いてしまうような構造」(このことについては、この日記でもさんざん書いた)がつくられているとすれば、静止している画面を、自らも静止しながら眺めているだけなのにも関わらず、感覚としては、身体を大きく運動させた時と同等かそれ以上の認知上の変化が起こる訳で、この時に、いわば非身体的な運動感覚、身体からズレた場所に、運動そのものがググッと生起するような感覚がうまれる。この感覚は、特定の身体的な運動を伴わない運動感覚だという意味では、抽象的なものだけど、ある特定の作品を観ている時にだけ起こる特定の感覚(「その感覚」は、特定の「その作品」を「観ている時」にだけ生起する、つまり「その感覚」こそがその作品の「意味」である)という意味では、きわめて具体的な感覚であるのだ。実際の身体の運動なしに起こる、具体的な運動感覚。(それは空回りする感覚装置が産み出す「幽霊」と言えるかもしれない。)我々に物質として与えられている、生きて、活動している身体とは、別種の組成で出来た運動の感覚。(だからそれは、筆致や線のような、画家の身体を直接的に想起させるようなものによってではなく、絵画の身体=「構造」によって産み出されるものなのだ。)このような感覚は、電車に乗ってイスに座りながら窓の外の動いてゆく風景を眺めているときの感覚だとか、映画で、レールやクレーンなどを用いた複雑なカメラの移動によって撮影されたショットを、じっとイスに座ったまま観ている時の感覚と通じるものがあるはずなのだけど、絵画の場合は、観られている対象=画面の方も動いていないという点で、やはり多少異なっているだろうか。例えて言えば、小さな細かい葉がびっしりとついている大きな木を見ているような時、一枚一枚の葉っぱを目で追ったり、葉っぱの一塊を一つのブロックとして捉えたり、木全体の立ち姿を眺めたり、と注目する点や範囲を刻々と変化させながら見ていると、各々のフレームが重なり合い、ざわざわとざわめくような粒子状の運動感覚のようなものが沸き上がってくるのを感じると思うのだが、それに近いと言えるのかもしれない。
●と、言うようなことを、細かくくねくね曲がりながら登り降りする緑地の道を早足で歩きながら、また、風邪をひいている最中に、ダラッと垂れ下がる泥のようなかったるさと、ふわふわとした浮遊感とが、体の重心よりもやや高い位置で拮抗しているような状態でフラフラと歩きながら、考えていた。
●絵画について考える時、その対象である絵画そのものの構造について考えるだけでなく、それを観ているぼくの身体が、それを「観る(描く)」という行為によって、どのような感覚をどのように駆動させているか、どのような感覚装置として生成しているのか、ということを考えるということでもあって、だから恐らく、身体に与えられる感覚を素材に構築される絵画について(絵画によって)考えるとき、ワタシのこの身体、から出発するしか仕方がないという感じがあるのだ。しかしそれだけではやはり駄目で、私の身体などとは無関係な場所から始めらる思考というのも絶対に必要で、そのためには、徹底して反現象学的な、非身体的なメディアであると思われる「映画」(非中枢的な記録装置であるカメラによって撮影されたフィルムを、バラバラに切り刻み、好き勝手につなぎ合わせたりして構築されるのだから)や、身体とは全く異なる道筋で展開される「言語」というものが、同時に必要とされるのだと思う。