カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

カズオ・イシグロ遠い山なみの光』(カズオ・イシグロを読んだのは初めて)。読み始めてすぐは、骨ばってギスギスした小説だと感じられた。このギスギス感は、描写が少なくて広がりに欠け(例えば主人公の住んでいるあたりの空間の設定は図式的過ぎるようにみえる)、人物同士の齟齬やズレを示すような会話ばかりで進行してゆくからだと思っていたのだが、そればかりではないようだ。読み進めてゆくと、ギスギス感は、世界に漂う不穏な空気感でもあり、この小説の世界の基調をなすような調子であると思えてくる。そしてそれは、この小説の主人公の悦子が、「自分の考えや感じ方」をあまり述べない、ということにも、その大きな要因があるのではないか。考えや感じ方が全く述べられていないわけではないが、肝心なことは何も述べず、当たり障りのないことしか言わない。この小説は悦子による一人称で書かれているから、肝心なことを言わないというのは、他の登場人物に対して言わないだけでなく、読者に向かっても言わない。例えば、悦子は、知り合って間もない佐知子という女性に、自分の蓄えの全てを簡単に貸してしまうのだが(そして佐知子という人物が「お金」の面でそんなに信用出来る人物とは思えないのだが)、その時の感情、例えば信頼だとか同情だとか躊躇だとか迷いだとか、そういうことが全く述べられないまま、ただ行為だけがさらっと示される。あるいは、悦子という人物は、夫と離婚してイギリス人の男性と結婚し、子供を連れて日本を離れてイギリスに住んでいて、娘からは自分の考えで行動する「新しい女性」のさきがけのような存在として尊敬されていたりするのだが、回想として語られる悦子の「日本(長崎)時代」をみる限り、この女性は自分を強く主張するというよりも、保守的で周囲に対して従順に振る舞うような人として描かれている。(自己主張せず、従順に振る舞う性質によって、佐知子に振り回される。)このギャップが、この主人公は「本当は何を考えているのか分からない人だ」という感触を読者に与えるだろう。つまりこの小説の話者は決して「本音」を言わない、どことなく信頼の置けない話者であり、読者はそのような話者を通じてしか小説の世界に触れられない。このことが、小説全体に不透明な靄がかかったような、読者が記述の進行に自分の身を預け切って流れに乗ることが拒まれているような、軽い緊張が強いられ、予断を許さないような、この小説独自のギスギスしか感触を生んでいるのだろうと思う。
●この小説の主な登場人物(佐知子や緒方さんやニキなど)は皆、その芯の部分にどうしようもなく「堅いもの」を持ってしまっていて、その「堅さ」を自分自身でも扱いかねていて、その「堅さ」ゆえにモロさを常に漂わせているような人物だと言える。全く描かれることのない景子の自殺にそれなりに説得力があるのは、それ以外の人物が皆「堅さゆえのモロさ」をもつ人物として描かれているから、描かれていない景子にも、同質ものもがあると自然に感じられるからだろう。そしてこの「堅い芯」によって、人物たちの会話は常に噛み合ない。(二郎と緒方さん、藤原さんと緒方さん、そして、悦子と佐知子、悦子とニキ)主人公で話者である悦子は、それぞれの人物の「堅さ」を敏感に察知し、それを尊重し、それゆえ、それに振り回されてしまうという意味で「従順」である。(悦子が自分の感情をはっきりとあらわにするのは、緒方さんを批判した文章を雑誌に載せた松田という人物に対して「何てくだらないことを言うんでしょう」と口にする場面のみだと思う。)このような主人公の積極性の無さと言うか、自己主張の希薄さのようなものは、彼女が「語り手」であることによる必然性もあるが、それ以上に、何か「含み(隠し事)」でもあるのではないかと感じさせるような空白を孕んでいる。(それは彼女の記憶にかなりの欠落があることからも感じられる。) 読者は、はっきりと意識化されるほどに強くはないとしても、この話者は嘘をついているのではないかという軽い疑惑を感じつづけながら文章を追うことになる。例えば、佐知子として語られる人物像こそが実は主人公の姿であって、しかしそれは語り手にとってあるべき(理想的な)自分の姿ではないため、あたかもそれが友人の姿であるかのように(自分から切り離されたドッペルゲンガーとして)語っているのではないか、というような、ちょっと狂気じみた感触さえ、この従順な語り手からは感じられるのだ。もし、悦子=佐知子だとしたら、景子=真里子だということになり、自殺した娘についても語っていることになるだろう。と言うか、これは別にうがった見方ではなくて、ラストの悦子とニキとの会話で、そのことがあからさまに(つまり、そういう読みを意図的に誘うように)匂わされているのだが。(悦子が真里子を殺した、あるいは殺そうとしたのではないか、という事も「匂わされて」いるのだが、これは、この場面の回想が、娘が自殺した後の話者によってなされていること、つまり話者の娘の死に対する自責の念が回想に反映されている、とみるのが自然だろうと思う。)ただ、このような「仕掛け」は(技法として高度ではあっても)小説において割合ありふれたもので、この小説の面白さは、それぞれの人物の「堅さによるモロさ」が丁寧に描かれていることと、それを語る語り手の狂気じみた感触によって、小説の世界に不穏な(ギスギスした)空気が常に張り詰めているところにあると思う。